ナチ党政権誕生後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 11:34 UTC 版)
「ローラント・フライスラー」の記事における「ナチ党政権誕生後」の解説
ナチ党が政権を獲得したのちの1933年2月にプロイセン州司法省局長に就任。フライスラーは3月にカッセルからベルリンへ移るにあたってライバルだったユダヤ人弁護士マックス・プラウドの自宅に突撃隊員を差し向け、彼を自宅から引きずり出した。プラウドは突撃隊員に鞭で打たれながら街中を走り回らされ、この一週間後に死亡した。フライスラーの最初の犠牲者であった。 1933年6月にはプロイセン州司法次官に昇進した。また1934年からは中央政府の司法次官を兼務した。その職責で、司法のナチ化を進め、ナチ党を支持しない判検事は罷免しかわりにナチ系の弁護士らを判検事に任命した。1933年末に司法大臣フランツ・ギュルトナーと法律問題担当国家弁務官ハンス・フランクが「刑事委員会」を組織して国家社会主義的な新刑法創設の作業をはじめると、フライスラーはフランクが定めた国家社会主義的スローガンを条文にする役割を果たした。今日のドイツ刑法にも一部が残っている。 優れた法律知識を持ち熱心なナチ党員でありながら、次官で出世が止まっていたのは、彼が独善的で後援者がいなかったこと、弟オスヴァルトがナチ党員でありながらカトリック教会の反ナチ活動家を弁護して無罪判決を勝ち取り、党の威信を下げたことなどが指摘されている。弟オスヴァルトはヒトラーの怒りを買って党を除名され、1939年3月に自殺とも殺人とも言われる不審死をしたが、彼自身はヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相のとりなしを受けている。フライスラーとゲッベルスはナチス左派という立場で近かったためであるとされる。 第二次世界大戦中の1941年にギュルトナーが司法相在職のまま死去。フライスラーはその後任となることを希望し、ゲッベルスがヒトラーにフライスラーを司法相に起用するよう提案してくれたが、ヒトラーは「元ボルシェヴィキ?ありえない」と述べて却下したという。1942年1月20日のヴァンゼー会議には司法省代表で出席している。 1942年8月20日、民族裁判所(人民法廷)長官オットー・ティーラックが法相に起用され、その後任としてフライスラーは人民法廷長官となった。この異動に関してティーラックは反対したものの、ヒトラーは「いや、フライスラーを君の後釜にしようというわけではないのだ。これは私があの元ボルシェヴィキにやる最後のチャンスなのだ」と述べたという。
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