ナチ党闘争時代の活動
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「ルドルフ・ヘス」の記事における「ナチ党闘争時代の活動」の解説
1920年5月、ミュンヘンのビヤホール「シュテルンエッカーブロイ」においてアドルフ・ヒトラーの演説を初めて聞き、非常に共感を覚えたヘスは、7月1日にナチ党の創立メンバー(党員番号16)として入党した。学生リーダーとなってヒトラーとも密接な関係を築く。このころのヘスの手紙からはヒトラーを「護民官」と呼んで熱狂する様子がよく伝わってくる。 1923年11月8日夜20時30分から始まったミュンヘン一揆においてはヒトラーに同道して「ビュルガーブロイケラー」へ突入した。ヘスはその夜捕まえたバイエルン州政府閣僚の移送にあたった。さらに翌日午前11時には大学生たちを率いてミュンヘン市役所を襲撃してユダヤ人とドイツ社会民主党党員の市議会議員を拘束し、彼らを人質としてビュルガーブロイケラーへ移送した。その後も人質の監視の任にあたっていた。ヘスは人質に乱暴な取扱いはしなかったという。 一揆の失敗を知り、オーストリアのザルツブルクに逃亡するが、翌1924年4月2日にヒトラーに判決が下ったことを知るとミュンヘンへ戻って自首した。バイエルンの国民法廷から18か月の城塞禁固刑(ドイツ語版)を言い渡され、ヒトラーと同じランツベルク刑務所に投獄された。 獄中ではヒトラーと非常に親密な関係を築いた。ハウスホーファー教授が頻繁にランツベルク刑務所のヘスを訪ね、ヒトラー、ヘス、ハウスホーファーの三人で長時間にわたり語り合ったりしていた。ヒトラーの著書『わが闘争』の口述筆記もヘスが務めた。ヘスはただの筆記者ではなく、ヒトラーの著述のアドバイザーでもあった。『我が闘争』の中の「生存圏」や「歴史におけるイギリスの役割」などの項目はヘスの影響が大きい。 出獄後は一時ミュンヘン大学でハウスホーファーの助手になるが、すぐに辞職。ヒトラーの個人秘書となり、ヒトラーとの密接な関係を続けた。彼はヒトラーのスケジュールを管理し、またヒトラーへの苦情の受付を担当するなどして、ヒトラーを面倒事から解放した。またヒトラーに接近する者の管理を行った。アルフレート・ローゼンベルクは当時のことを「ヒトラーに近づくのは容易ではなかった。いつもその近くにヘスがいたからだ」と語っている。ただし1932年までヘスにはナチ党内で公式の肩書は何もなく、ヒトラーの個人的な秘書にすぎなかった。 ヒトラーとヘスは公的な場では「貴方 (Sie)」で呼び合っていたが、私的な場では親密な間柄の二人称「きみ (du)」で呼び合う仲だった。しかしヒトラーはすでにこの頃からヘスにいらつくことがあり、1927年夏にはハインリヒ・ホフマンに対して「ヘスは真面目だが、時々神経に触る」と語っている。 1927年12月20日にはヒトラーとハウスホーファー教授を立会人としてイルゼ・プレールと結婚している。結婚式はキリスト教会を嫌って市役所において行った。 ヘスはヒトラーの秘書活動の合間を縫って党のための宣伝飛行も行っていた。「ドイツ一周飛行」や「ツークシュピッツェ飛行」などの航空イベントに参加した。1931年にはナチ党所有の航空機で社民党の集会に低空飛行をかけて社民党員を蹴散らした。この件で社民党から告発を受けて裁判沙汰となった。普段は真面目でおとなしいが、突然飛行機に乗って極端なことをやる傾向は当時からあったようである。 グレゴール・シュトラッサーの除名後の1932年12月、ヒトラーはシュトラッサーの組織全国指導者の職をいくつかに分解し、そのうちの中心的な役割をヘスとロベルト・ライに与えた。ヘスには中央政治局局長なる地位が与えられた。これは全ての党機関を監督する責任者であった。
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