ナチ支配の確立後、大使に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 07:56 UTC 版)
「フランツ・フォン・パーペン」の記事における「ナチ支配の確立後、大使に」の解説
1934年7月25日、オーストリア首相エンゲルベルト・ドルフースがオーストリア・ナチス(ドイツ語版)によって暗殺された。この暗殺はヒムラーの部下がクーデターを計画して行ったものだったが、クーデター自体は失敗に終わった。ドルフースはイタリアのムッソリーニ首相と親しく、オーストリアの独立はイタリアにとって重要であったため、かつてバチカンを訪問した際にもパーペンはムッソリーニにドルフースを支持しないよう説得するも失敗しており、事態が明らかになると独伊関係が崩壊するおそれがあった。ムッソリーニはイタリア軍四個師団を伊墺国境に配備し、介入の姿勢を見せた。 26日午前2時、ヒトラーはパーペンに連絡を取り、ウィーン公使就任の要請を行った。翌日ヒトラーと面会したパーペンは要請を受諾したが、オーストリア側のアグレマンが得られず、ウィーンには向かえなかった。その間の8月2日にヒンデンブルク大統領は死去。ヒンデンブルクは公式の遺言状に帝政復活の希望を記しておらず、ヒトラーが「国家元首兼首相」(総統)としてドイツを支配する独裁体制が完成し、パーペンの企図した帝政復活計画は潰えた。8月7日、オーストリア政府からアグレマンが行われ、パーペンは副首相を辞任して正式にウィーン公使となった。パーペンは8月15日にウィーンに赴任し、ヒトラー関与の隠蔽と事態の収拾に努めた。 1936年からは駐オーストリア大使に任じられ、オーストリア併合に暗躍した。1937年にムッソリーニがドイツを訪問した際はイタリアと協議するオーストリアの問題をめぐるヒトラーの顧問を務めた。後にパーペンは、この時期の自らの活動は回想録で全ヨーロッパ紛争の回避のためと弁明している。1938年8月13日に黄金ナチ党員バッジを授与され、同時にナチ党に入党した(党員番号5,501,100)。1939年からはトルコ駐在大使を務め、第二次世界大戦で中立を保つトルコを中央同盟国時代のようにドイツ側にする工作に従事し、1941年にはドイツ・トルコ相互不可侵条約が締結された。しかしトルコは中立を維持し続け、ソ連のエージェントによる暗殺未遂事件にも遭遇する。ノルマンディー上陸作戦前にはキケロと呼ばれるスパイ(エリエサ・バズナ)からイギリス大使館の情報を収集したが、これは連合軍の欺瞞作戦ボディガード作戦(英語版)によるものであり、結果としてドイツに誤情報をもたらすこととなった。1944年にトルコはドイツとの外交関係を断絶しパーペンは帰国した。ローマ教皇庁への大使起用が検討されたが、ベルリン司教の反対で実現しなかった。同年7月のヒトラー暗殺未遂事件で友人知己が逮捕され助命に努力したが、成功しなかった。以降、ドイツに連合国軍が迫る中もゲシュタポの監視を受けていた。
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