ナチ政権の副首相時代
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「フランツ・フォン・パーペン」の記事における「ナチ政権の副首相時代」の解説
1933年1月30日11時15分頃にヒトラー内閣が成立した。パーペンは副首相兼プロイセン州首相に就任した。ナチ党からの入閣は首相ヒトラー、内相ヴィルヘルム・フリック、無任所相・プロイセン州内相ヘルマン・ゲーリングの三人のみであり、その他の閣僚はヒンデンブルク大統領自らが選んだ国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクを除き、パーペンが選んだ。パーペンは「われわれは彼を雇ったのさ」「わたしはヒンデンブルクに信頼されている。二ヶ月もしないうちにヒトラーは隅っこのほうに追いやられてきいきい泣いているだろう」と語り、自らのヒンデンブルクへの影響力でもってヒトラーを操り人形できるという幻想に浸っていた。 ヒトラーは2月1日の国民へのラジオ放送で「二つの偉大な四カ年計画」を宣言して第一次四カ年計画を発表した。しかし大の反共主義者であったパーペンは「あまりにスターリン主義的用語が多い」とヒトラーに抗議した。2月6日にパーペンとマイスナーの助言によって明らかに違憲な大統領緊急命令「プロイセンにおける正常な統治関係確立のための緊急令」が発令された。パーペンは自らがプロイセンで独裁権力を握るつもりで発令させたのだが、結局ヒトラーの要求でプロイセン州の内相に就任させていたヘルマン・ゲーリングがプロイセンにおいて巨大な権限を握ってパーペンはプロイセン州首相の職をゲーリングに譲り渡すこととなった。 ヒトラーの首相就任の二日後の2月1日に国会は解散され、選挙戦に突入した。2月11日にパーペンは国家人民党と鉄兜団に統合を薦め、「黒・白・赤」を結成させた。3月5日に総選挙が行われたが、ナチ党が得票率43.9%を得て、288議席を獲得した。この選挙で、自身も「黒・白・赤」から出馬して国会議員に初当選した。 3月23日にヒトラー内閣に憲法を除く全ての法律を自由に公布できる権限を認める全権委任法が可決された。パーペンは政府を国会から独立させるために全権委任法を可決させることには当初から賛成だった。しかしこの全権委任法によって大統領の存在も形骸化し、大統領の信任を背景にしたパーペンの権力も形骸化することになった。パーペンはそこまで考えが及ばなかったようである。 1933年7月にパーペンはヒトラーの代理でバチカンを訪れた。ローマ教皇ピウス11世は「ドイツ政府がその指導者として共産主義とロシアに断固反対する指導者を持つに至った事は大変に喜ばしい」と述べた。そしてドイツとバチカンの間で政教条約が締結された。この「ライヒスコンコルダート」により純宗教活動としてのカトリック教会や学校、宣教活動をナチス政権が承認し、また政治的カトリック(中央党やカトリック労働組合)の解散をローマ教皇庁が承認した。またローマ教皇庁はドイツ国内のカトリック神父に対してナチス政権に忠誠を誓うよう命じた。カトリックの反体制運動に頭を悩ませていたヒトラーは「カトリックは今後ナチス体制に全面的に支持することであろう」と期待感を表明した。 パーペンは秘書に保守革命の代表的な思想家であるエドガー・ユリウス・ユング(ドイツ語版)を起用するなど、思想的にナチスと一線を画しており、次第にヒトラーとの溝は深まりつつあった。この頃ヒンデンブルク大統領は瀕死の重病であり、この後の事態は予断を許さなかった。パーペンはナチスに対抗する手段として帝政復活を考えており、ヒンデンブルクに帝政復活を希望する遺言状を書かせ、彼の死後に帝政復帰を実現する計画を建てていた。 1934年6月17日にマールブルク大学で過激ナチスおよびSAなどを批判する講演を行った。この演説原稿は秘書ユングともう一人の秘書ヘルベルト・フォン・ボーゼ(ドイツ語版)、交通省海事局長エーリヒ・クラウゼナーの協力を得て執筆されたものだった。これを受けたヒトラーらは激怒し、宣伝相ゲッベルスは講演録の発表や予定されていたラジオ放送を禁止する措置をとった。しかしパーペンは事前に原稿を外国人記者や外交官に渡しており、内容は広く知られることになった。20日、パーペンはヒトラーに対し、演説の発表ができない場合は辞職すると抗議した。ヒトラーは善処を約束して慰留している。 6月30日、ヒトラーによる突撃隊の粛清である「長いナイフの夜」事件が発生した。粛清を知らされていなかったパーペンはゲーリングに抗議に行ったが、この際に親衛隊に帰り道をふさがれて命を狙われた。しかしゲーリングの庇護で命だけは助かった。しかし「マールブルク演説(ドイツ語版)」に関係した秘書ユング、ボーゼは副首相官邸で親衛隊により射殺された。またクラウゼナー海事局長もゲシュタポ本部で殺害されている。パーペンはその後自宅に軟禁されつづけ、外部との連絡を絶たれたが、ヒンデンブルク大統領の個人的な信任が厚かったため、殺害はされなかった。
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