ナチ党顧問弁護士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 11:34 UTC 版)
「ローラント・フライスラー」の記事における「ナチ党顧問弁護士」の解説
1923年のミュンヘン一揆の裁判を傍聴して一揆首謀者のナチ党党首アドルフ・ヒトラーに強く惹かれたという。ヒトラーが投獄され、ナチ党も禁止されていた1924年に「民族社会主義ブロック」(ナチ党の偽装政党大ドイツ民族共同体とドイツ民族自由党の選挙戦共同組織)に参加し、同党からカッセル市議会議員に当選した。のちにはヘッセン・ナッサウ州議会議員にもなる。 翌1925年に再建されたナチ党に入党。党員番号は9,679だった。以降ナチ党お抱えの顧問弁護士となる。 ヴァイマル共和政期のドイツは各党が私兵組織(ナチス党の突撃隊や親衛隊以外にも、共産党の赤色戦線戦士同盟や社会民主党の帝国国旗団、国家人民党の鉄兜団、前線兵士同盟など)を擁していたので政治的暴力活動が後を絶たなかった。ナチ党の突撃隊員も多くの者が暴力行為を働いた容疑で裁判にかけられていた。そのためフライスラーの仕事が絶えることはなかった。1931年9月にはベルリン突撃隊指導者ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフ伯爵とカール・エルンストが反ユダヤ主義暴動を組織した廉でベルリン警察に逮捕されて裁判にかけられたが、フライスラーが弁護士に付いて辣腕をふるった結果、軽い判決で済んでいる。 1928年に結婚し、二男をもうける。 1928年のナチス地区指導者による党中央への報告では「演説者として優れたレトリックを持っている。大衆向きではあるがよく考える人には拒絶されるだろう。フライスラー同志は演説者としては使えるが、指導者としては信用できず他の意見に流されやすいため不適格である」と評されている。彼はナチス突撃隊で士官の階級だったが、1934年の「長いナイフの夜」以降は突撃隊から離れている。 1932年にはプロイセン州議会議員に当選。
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