ナチ党政権獲得後とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ナチ党政権獲得後の意味・解説 

ナチ党政権獲得後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 00:51 UTC 版)

ルドルフ・ヘス」の記事における「ナチ党政権獲得後」の解説

1933年1月30日パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりヒトラー首相に任命された。1933年3月国会選挙ヘス国会議員に当選した。 1933年4月21日ナチ党副総統(Stellvertreter des Führers,「指導者代理」や「総統代理」とも訳される)に任命された。この職位総統の名で党のあらゆる問題処理する権限持ち、また立法国家社会主義即しているかどうか監視するためにドイツ国あらゆる法律制定参画する定められていた。ヘスにはヨーゼフ・ゲッベルス新聞エルンスト・レーム突撃隊ヘルマン・ゲーリング警察権力といったような実力が何もなかった。ヘス実権全てアドルフ・ヒトラーから発せられるものであった。そして恐らくそれが彼が副総統地位得た理由であったハインリヒ・ヒムラー親衛隊 (SS) に接近図り親衛隊名誉指導者として親衛隊入隊しヒムラーから親衛隊大将階級与えられた。親衛隊大将階級最初に得たのはヘスである。1934年6月にはヘス副総統権限親衛隊情報部 SDナチ党唯一の諜報機関とすると定めた1933年7月からはマルティン・ボルマンヘス秘書副官として活動するようになったボルマンは非常に有能な人物上官ヘスから徐々に権限奪っていた。 1933年10月3日にはナチ党国外組織 (AO) (de:NSDAP/AO) の総裁就任しエルンスト・ヴィルヘルム・ボーレをその大管区指導者実弟アルフレートを副指導者とした。また外国籍ドイツ人管理のための機関として「外国でのドイツ主義のための民族団体」(VDA) を立ち上げ恩師カール・ハウスホーファーにその総裁就任してもらっている。さらにヨアヒム・フォン・リッベントロップに「リッベントロップ事務所ドイツ語版)」を立ち上げさせた。ヘスはこれらの組織使って外務省ナチ党対外政策全国指導者アルフレート・ローゼンベルク、さらに独立傾向強めたリッベントロップなどと外交権めぐって争った1933年12月1日にはヒトラー内閣無任所大臣として入閣した。党を代表して内閣参加するという建前であった1934年6月30日突撃隊粛清(「長いナイフの夜」)の直前6月25日ヘス突撃隊横行していた第二革命論を批判する声明出した。しかしヘスレーム以下突撃隊幹部まとめて粛清することを知らされたのは当日早くヒトラー電話によってであった粛清自体ではなく自分事前に何も伝えられなかった事に彼は大きなショック受けたとされるヒトラーはその電話ヘスミュンヘン褐色館参じるよう命じ自身レーム以下突撃隊幹部招集していたバート・ヴィースゼーに逮捕向かった一方ヘス命令通り褐色館参じた。そこでも数十名の突撃隊員が監禁されており、ヘスは彼らに「諸君容疑者だ。諸君のうち罪なき者も、他人の罪により苦しむことになるであろう」と冷たい口調言い放った。しかしその後ヒトラーヘス友人アウグスト・シュナイトフーバー突撃隊大将銃殺決定した時にはかなり動揺した様子であったといい、ヘスヒトラー考え直さようとしたが、却下されて奥の部屋引っ込み、そこで泣いていたという。一方でレーム粛清には何のためらいなかったらしく、ヘスは「最大の豚は消えねばならない」と述べ、「総統レームの処刑は私にお任せください!」とヒトラー願い出ている。もっとも彼はこれを認めず別の者に処刑させた。 この事件以降ヘスノイローゼ気味になり、しまいには心気症ヒポコンデリー)を患ったまた、彼は1933年頃から胃や胆石痛み訴えるようになっていたが、それらもますます酷くなった。やがてボルマン実務委ねられることが多くなり、ヒトラーとも徐々に疎遠となったこの頃ヒトラーゲーリングに「ヘスが私に代わって務めることがなければいいんだがな。そうなった気の毒なのはヘスなんだか党なんだか、分からんな」と語ったという。 総統寵愛を失うにつれてヘスには政府代表としてドイツ各地巡って国民党員交流深める形式的な職務多く割り当てられるようになり、実権をますます喪失させていった日々冷遇されヘスオカルト没頭するようになり、占星術ダウジング夢占い千里眼などの専門家続々彼の下に集まってくるようになった1935年制定反ユダヤ主義ニュルンベルク法にはヘス署名がある。その後多数反ユダヤ関連法律署名した。ただ1938年11月8日発生した反ユダヤ主義暴動水晶の夜」については、首謀者であるゲッベルスと仲が良くなかったこともあり、「文化的市街略奪して汚すのはドイツ人らしくない」と反対の弁を口にしている。 1939年8月には、ゲーリング議長とする「国防閣僚会議ドイツ語版)」の議員となる。もっともこの会議一度開かれることはなく、単なる名誉職であった1939年9月1日ヒトラー対ポーランド戦開戦にあたって国会演説ヘスゲーリングに次ぐ第二後継者定めた。もちろんこの頃ヘスはほとんど実権喪失しており、彼の国民的人気配慮しただけの指名であった

※この「ナチ党政権獲得後」の解説は、「ルドルフ・ヘス」の解説の一部です。
「ナチ党政権獲得後」を含む「ルドルフ・ヘス」の記事については、「ルドルフ・ヘス」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ナチ党政権獲得後」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ナチ党政権獲得後」の関連用語

ナチ党政権獲得後のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ナチ党政権獲得後のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのルドルフ・ヘス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS