ナチ党政権下
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国会で第一党を占める国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党首アドルフ・ヒトラーが1933年1月30日にヒンデンブルク大統領より首相に任命され、ナチ党政権が誕生した。ナチ党政権は、共産党集会・機関紙を禁止とし、社民党集会・機関紙も中止・発行停止に追い込む弾圧を加えた。さらに、総選挙の投票を控えた1933年2月27日夜に発生したドイツ国会議事堂放火事件を利用して共産党への大弾圧を加え、社民党への選挙妨害も激しさを増した。追い詰められた共産党はこれまで「社会ファシズム」と批判してきた社民党との統一戦線を提案したが、社民党はこれを拒絶した。3月5日の選挙の結果、ナチ党は288議席(+92)、社民党は120議席(-1)、共産党は81議席(-19)を得た。ナチ党は連立与党の国家人民党と足して過半数を得た。直後の3月9日には共産党議員の議員資格が議席ごと抹消され、議席総数が566に減少したため、ナチ党が単独過半数を獲得した。 3月23日にヒトラーが国会に提出した全権委任法に社民党は反対した。反対演説の際に社民党党首オットー・ヴェルスは「政府は社会民主主義者を無防備にすることはできるかもしれないが、不名誉な立場に貶めることはできない」「今日の歴史的な時にあたって、我々社会民主主義者はヒューマニズムと正義、自由、社会主義の理念を信奉していることを高らかに表明する。いかなる全権委任法といえども、永遠にして不滅の理念を破壊するような権限を諸君らに与えはしないだろう」と演説した。ヒトラーはこのヴェルスの演説に怒り「諸君らはもう用済みだ。(略)ドイツの星はいままさに昇りつつあるが、諸君の星はすでに没した。諸君の時代はもう終わったんだ。」と述べたという。結局、全権委任法に反対票を投じた政党は社民党だけであり、賛成441、反対94で全権委任法は可決された。 一方で社民党は存続のためにナチ党政権の怒りを買わぬよう、融和的な態度も示した。ヴェルスは労働社会主義インターナショナル加盟友党によるヒトラー批判を「中傷宣伝」であるとして、これを止めるよう働きかけたが、止めないため、3月30日をもって社民党は労働社会主義インターナショナルから脱退した。各州議会・市議会の社民党議員団も「ドイツ=社会主義グループ」なる勢力を作りはじめてナチ党への恭順を強めていった。3月末には労働組合総同盟が社民党を見捨て、ヒトラーが5月1日(メーデー)に行った第一回国民労働祭も「勝利の日」として祝った。 しかしナチ党は社民党を見逃すつもりはなかった。5月2日には社民党を支持する労働組合が突撃隊や親衛隊により次々と襲撃され、その幹部達が逮捕された。労働組合の資金は没収されて唯一合法な労働組合とされたロベルト・ライが率いる「ドイツ労働戦線」の資産となった。5月10日には社民党の全資産も没収された。6月に入るとヴェルス以下社民党幹部は続々とドイツから亡命していった。そして6月22日には社民党は全ての活動を禁止されて消滅することとなった。しかしこの党崩壊の直前にあっても社民党はナチ党政権への忠誠を示そうとヒトラーの外交政策に賛成する投票を行っている。ある党幹部はこの最期の瞬間の社民党の姿について「もはや社会を動かす力はなく、バラバラに解体された死骸にすぎなかった。社会主義の理念はとうに崩壊し、ナチに降伏していたのである」と評した。 社民党崩壊後、国内に残っていた社民党の政治家は次々と強制収容所へ送られていった。ヴェルスら亡命した党員はチェコスロバキアで「ドイツ社会民主党指導部(SoPaDe、ソパーデ)」と呼ばれる組織を結成し、政治活動を続けた。1934年にはプラハ宣言(de:Prager Manifest)を発してナチスに対する対抗姿勢を明らかにした。チェコスロバキア併合後はパリに移り、1939年にヴェルスが死亡するとハンス・フォーゲルがSoPaDeの指導者となった。1940年のナチス・ドイツのフランス侵攻後はロンドンに亡命したが、ルドルフ・ヒルファーディングら逃亡中に捕らえられる幹部も出た。1941年には在英ドイツ社会主義組織連合(ドイツ語版)を結成し、ズデーテン・ドイツ社会民主党(ドイツ語版)などの亡命社会主義組織と連携をとった。またヒトラー暗殺未遂事件の参加者などの国内の反ナチス派と接触している。
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ナチ党政権下
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「ゲルト・フォン・ルントシュテット」の記事における「ナチ党政権下」の解説
ナチ党政権下でも1938年までベルリンに駐留する第1集団司令部司令官を務め、陸軍の中枢人物で在り続けた。 ナチスの思想に完全に共鳴していたわけではないが、その軍拡路線には共感し、1934年の長いナイフの夜における突撃隊幹部の粛清も喜んでいた。ただこの事件で前首相クルト・フォン・シュライヒャー退役大将が粛清されたことについては反発し、事件後、クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト退役上級大将やエルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン少将らとともに突撃隊幕僚長エルンスト・レームに事件の全責任を押し付けてシュライヒャーの名誉を回復しようと画策した。 軍の機械化については柔軟な思考をもっており、当時陸軍内で嫌われていたハインツ・グデーリアンの機甲戦術理論にも理解を示し、装甲師団創設への後押しをした。ただ彼は戦車が戦場の主役とは考えておらず、非常に有能な召使と考えていたようである。ドイツ陸軍の中に機械化師団を作るのには賛成だったが、それが行きすぎて歩兵部隊の装備に支障をきたすことには反対だった。 1938年3月には上級大将に昇進。この頃ブロンベルク・フリッチュ解任事件が発生。冤罪で同性愛者疑惑をかけられて陸軍総司令官の座を追われたフリッチュに対する処遇についてアドルフ・ヒトラーに抗議している。親衛隊の陰謀と確信したフリッチュから決闘状を親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに送り届けることを頼まれ、ルントシュテットはその決闘状を数週間持ち歩いたもののヒムラーに届ける気になれず、フリッチュを説得して決闘状を引っ込めさせたという。 1938年9月には第2軍司令官に就任。ズデーテン危機の際には参謀総長ルートヴィヒ・ベックと連名でヒトラーに対して戦争を招きかねない外交は慎むよう求める手紙を送った。10月のズデーテン併合の際には軍集団司令官に任じられ、ズデーテンラントへの進駐を指揮した。 しかしこの直後の10月31日に退役を命じられた。退役にあたって彼が大佐時代に連隊長を務めていた第18歩兵連隊から名誉連隊長の肩書を贈られた。彼はこれに大変感謝し、元帥となった後も大佐(連隊長)の制服に元帥の階級章を付けることが多かった。
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ナチ党政権下
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「コンスタンティン・フォン・ノイラート」の記事における「ナチ党政権下」の解説
1933年1月30日にアドルフ・ヒトラー内閣が成立した。ノイラートは引き続き外相を務めた。貴族出身かつ外務官僚として国際的知名度が高く、ヒンデンブルグのお気に入りだったノイラートは、ヒトラー・パーペンに次ぐ事実上の政権ナンバー3の地位にあり、パーペンやシャハトと並んで実務経験の乏しいヒトラー内閣に威信を与える役割を担っていた。 ヒトラーの指示を受けて1933年10月14日にドイツを国際連盟から脱退させた。代わってヒトラーはポーランドとの不可侵条約の締結を企図し、ノイラートにその交渉にあたらせた。結果、1934年1月26日にはポーランドとの間に10年期限の不可侵条約が締結された。 しかし、次第にヒトラーの私的外交顧問であるヨアヒム・フォン・リッベントロップが頭角を現し、ノイラートの外交活動は制限を受ける事が多くなっていった。英独海軍協定(en)の交渉に当たってリッベントロップは艦船保有比率をドイツ35対イギリス100で交渉すべきと提案したが、ノイラートはそれではイギリスは応じないだろうと見て、もっと要求を下げるべきだと主張したが、ヒトラーはリッベントロップを支持した。ヒトラーは1935年6月1日にリッベントロップをこの問題の全権大使に任じてイギリスとの交渉にあたらせた。折しも5月2日に仏ソ相互援助条約が締結されていた事もあり、イギリス側がドイツのこの提案に応じて交渉は成功した。こうして1935年6月26日に英独海軍協定が締結された。ノイラートの外務省の面目は丸つぶれとなった。1936年3月7日にドイツ軍はラインラント進駐を行ったが、その事後収拾外交もリッベントロップが中心となって行った。 1937年にはナチ党に入党した。また同年9月には親衛隊(SS)に名誉親衛隊中将として入隊した(1943年6月19日に親衛隊大将に昇進)。 だがその後ヒトラーの戦争計画に反対し、1938年2月4日に外相を解任。無任所大臣として閣内に留まったものの、外交政策は後任の外相であるリッベントロップが取り仕切り、完全に蚊帳の外に置かれてしまった。 翌1939年にベーメン・メーレン保護領総督に就任し、第二次世界大戦中はチェコ人のレジスタンス鎮圧などにあたったが、全体的には穏健な統治をおこない、強権的統治を求めるヒトラーからは失望された。1941年には副総督職が新設され、国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒが副総督としてプラハに赴任してきた。ハイドリヒはチェコ全土に激しい弾圧をおこない、ノイラートは実権を喪失していった。ハイドリヒ暗殺後も後継の副総督となったクルト・ダリューゲや親衛隊及び警察高級指導者のカール・ヘルマン・フランク(後、ベーメン・メーレン保護領担当国務相)に実権を奪われた。さらに1943年8月24日には総督を辞職することとなり、前内相ヴィルヘルム・フリックと交代している。以降直接政治に関係することはなくなった。
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「エルヴィン・ロンメル」の記事における「ナチ党政権下」の解説
1933年1月30日に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)党首アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命された。ロンメルはこれまで政治にはほとんど関わらなかったが、他の多くの軍人達と同様にヒトラーの登場には熱狂し、彼の反共主義と再軍備の政策を歓迎した。 1933年10月10日に少佐に昇進するとともにゴスラーに駐屯する第17歩兵連隊の第3大隊長に任じられた。1934年9月30日に収穫祭のためにヒトラーがゴスラーを訪問した。この時にロンメルの大隊はヒトラーを出迎える儀仗兵の任につき、ロンメルとヒトラーが初めて対面することとなった。もっともこの時にロンメルが公的な関係以上に何か特別に扱われたという形跡はない。またロンメルがヒトラーについてどう感じたかを示す証拠もない。ただこの閲兵式の直前にロンメルは、警護問題をめぐってSSと揉めたとされ、「閲兵式においても警護のためSS部隊が最前列になるべきである」と主張したSS隊員にロンメルは激怒し、「ならば私の大隊は閲兵式には出席しない」と応酬して騒ぎになり、ヒトラーに随伴していた親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーから直接に「部下の非礼を詫びたい」と謝罪を受けたという。 1935年3月1日に中佐に昇進した。1935年10月15日に新設されたポツダム歩兵学校の教官に任じられた。この学校でもロンメルは非常に好感をもたれる教官であったという。 1936年9月のニュルンベルク党大会で総統護衛大隊(Führer-Begleit-Bataillon、FHQ)の指揮官に任じられた。この時にロンメルは「私の後続の車は6台に限定せよ」という総統命令を厳守し、ヒトラーに随伴しようと押し寄せてくる党幹部らの車を押し止めた。この件でヒトラーはロンメルに注目するようになったという。 しかしヒトラーがロンメルを決定的に評価するようになったのは、1937年初期にロンメルがフォッゲンライター出版社から『歩兵攻撃(Infanterie greift an)ISBN 978-1-85367-707-6』を出版したことだった。これはロンメルが教官として行った講義をまとめた物であり、ロンメルの一次大戦での経験が分かりやすい文章と挿絵付きで書かれていた。この本は50万部を売り切るベストセラーとなり、各方面からの高評価を受け、当時、歩兵だったヒトラーも自身の経験に照らし合わせてこの本を激賞した。なおロンメルはこの本の印税に関してフォッゲンライター出版社と結託して脱税をした。ロンメルは『歩兵攻撃』によって巨額の印税を得ていたが、この際にロンメルはフォッゲンライター出版社と結託して、1年間の生活に必要な1万5000ライヒスマルクだけを自分に支払わせ、残りは銀行預金にして寝かせ、税務署への所得申告において軍から支給されている給料以外の所得を1万5000ライヒスマルクと偽って申告した。 1937年2月にロンメルはナチ党の青年組織であるヒトラー・ユーゲントに国防省連絡将校として派遣された。ロンメルは国防軍の下級将校の指導による軍事教練をユーゲント団員に施すことを企図し、全国青少年指導者バルドゥール・フォン・シーラッハとの折衝にあたったが、ユーゲントの指導権を軍に奪われることを恐れるシーラッハはこれに反対し続けた。ロンメルとシーラッハの関係は悪くなる一方で二人は劇場での席次など些細なことでも争う様になった。この任にあった頃の1937年8月1日に大佐に昇進した。 シーラッハとの衝突にも関わらず、ヒトラーのロンメルへの信任は失せず、1938年9月にズデーテン併合にあたってヒトラーはロンメルを再び総統護衛大隊長に任じ、自らの護衛を任せた。この頃にはロンメルは完全なヒトラー支持者になっており、次第にヒトラー讃美がエスカレートしていった。妻への手紙には「(ヒトラーは)ドイツ国民を太陽の下へ導きあげるべく、神、あるいは天の摂理によって定められている」と書き、友人への個人的な手紙には文末に「ハイル・ヒトラー、敬具、E・ロンメル」と記す程になっていた。ヒトラーにとってもロンメルはお気に入りの将校だった。ロンメルは貴族階級出身の将校ではなく、そうした貴族将校たち特有の平民出のヒトラーを見下したような態度がなかったこともヒトラーの好感につながったと思われる。 1938年11月10日にはウィーン郊外のヴィーナー・ノイシュタットの士官学校の校長に任じられた。ロンメルはこの学校をドイツ、そしてヨーロッパでもっとも近代化された士官学校にしようと張り切っていたが、ヒトラーの警護隊長にしばしば任じられたため、彼はあまりこの学校に訪れなかった。 1939年3月15日にチェコスロバキア併合があると、ヒトラーは再びロンメルを総統護衛大隊の指揮官に任じて、自分の警護にあたらせた。チェコはオーストリアやズデーテンと違い、親ドイツ系が少ないため、ヒトラーが出向いても反発を招き暗殺される恐れがあった。ヒトラーがロンメルに「大佐、貴官が私の立場なら、どうするかね?」と聞くと、ロンメルは「オープンカーに搭乗し、重武装の護衛無しでプラハ城まで乗り込み、ドイツのチェコスロバキア統治が始まったことを内外に向けて示します」と答えた。ヒトラーは、他の者たちの反対を押し切って、ロンメルの意見を容れ、ロンメルたちを護衛に付けたのみで無事にプラハ城に乗り込んでいる。続く3月23日のメーメル返還でヒトラーがメーメルへ向かった時にもロンメルは総統護衛大隊長を務めた。 1939年8月1日に少将に昇進した。6月1日に遡及しての昇進である事を認められた。これはロンメルを寵愛するヒトラーの特別な決定によるものである。ロンメルは妻への手紙で「私が聞き知ったところによると先の昇進はひとえに総統のおかげだ。私がどれほど喜んでいるか、お前にも分かるだろう。私の行動とふるまいを総統に承認していただく事が私の最高の望みなのだ。」と書いている。 ヒトラーの寵愛は続いた。1939年8月22日を以ってヴィーナー・ノイシュタットの士官学校の校長職を辞し、8月25日に「総統大本営管理部長」に任じられた。これまでのような期間限定の警護隊長ではなく、常時ヒトラーの警護を行うこととなった。
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