ナチ党初期の活動
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「ユリウス・シュトライヒャー」の記事における「ナチ党初期の活動」の解説
1922年10月にミュンヘンでアドルフ・ヒトラーの演説を聞いたシュトライヒャーはヒトラーの虜となった。シュトライヒャーはその場で聴衆をかき分けて進み、「自分の党に属する2000人の党員を贈り物として捧げたい」とヒトラーに申し出たといわれる。 部下たちとともにナチ党に入党したシュトライヒャーは、ニュルンベルクに最初のナチ党支部を創設、同支部の支部長に就任した。さらにシュトライヒャーのイニシアチブの下にフランケン地方の町々に13のナチ党支部が創設されていった。ヒトラーへの強い忠誠心と北バイエルンの党建設の功績でヒトラーはシュトライヒャーに多大な信任を寄せていた。彼は北バイエルンにおけるヒトラーの総統代理に任じられていた。1920年代前半のシュトライヒャーはナチス中枢の幹部であったといえる。しかしシュトライヒャーは政敵と争いを起こす事が多く、よく裁判沙汰になり、党に厄介事をもたらす事が珍しくはなかった。ポルノグラフィーに夢中になったり、常に犬鞭を持ち歩くといった奇妙な習慣のために評判の悪い人物であった。 1923年5月には悪名高い反ユダヤ主義新聞『シュテュルマー(Der Stürmer)』(突撃兵ないし前衛の意)を創刊している。『シュテュルマー』は著名な歴史学者であったハインリヒ・フォン・トライチュケの言葉「ユダヤ人は我々ドイツ人の災いである」を毎号各ページの下段に掲げるほか、読者の感情を逆なでするような過激な見出しを用いて、たとえば猟奇的な性的犯罪などをでっちあげて掲載し、ユダヤ人を誹謗中傷した。あまりに下品で俗悪な内容に他の党幹部や国防軍の将校達、ナチス支持者の財界人などからさえ批判の声が上がっていた。戦時中の連合国のプロパガンダにも『シュテュルマー』紙はナチの悪徳ぶりを示す証拠として盛んに利用された。『シュテュルマー』の発行部数は1923年には2500部だったが、1935年には6万5000部になり、1937年には50万部に達している。
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