ナチ党の躍進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:25 UTC 版)
1929年の世界恐慌によって急速に景気の悪化したドイツでは、街に大量の失業者が溢れかえり、社会情勢は不安の一途をたどっていた。さらにヤング案への反発がドイツ社会民主党(SPD)政府への反感の元となった。 同じくドイツ共産党も社会的混乱に乗じて伸張し、1930年の国会選挙ではナチ党が得票率18%、共産党が得票率13%を獲得し、SPDの得票率24.5%に次ぐ第2党と第3党に成長し、各地の都市で突撃隊とドイツ共産党の武装部隊「赤色戦線戦士同盟」による抗争が激化するようになった。党勢の拡大にもかかわらず、待遇が改善されない突撃隊には党幹部に対する反感が生まれ、ヒトラーは突撃隊を押さえるためにボリビアで軍事顧問をしていたレームを呼び戻さざるを得なくなった。 1931年9月18日、溺愛していた姪のゲリ・ラウバルが自殺し、ヒトラーは大きな衝撃を受けた。一時は政界からの引退もほのめかしたが、数日後に復帰した。この後菜食を宣言し、肉食を断った。 1932年2月25日には党幹部ヴィルヘルム・フリック、ディートリヒ・クラゲスの手配により、ブラウンシュヴァイク自由州のベルリン駐在州公使館付参事官となった。これは名目上のことであり、公務員に自動的に与えられるドイツ国籍を取得するためのものであった。ドイツ国籍を取得(ドイツ語版)したヒトラーは、大統領選挙に出馬する。大統領選挙では現職のパウル・フォン・ヒンデンブルク、ドイツ共産党のエルンスト・テールマン、鉄兜団代表で国家人民党の支持を受けたテオドール・デュスターベルク、作家グスタフ・アドルフ・ヴィンター(ドイツ語版)の5名が立候補した。 選挙では「ヒンデンブルクに敬意を、ヒトラーに投票を」をスローガンにし、膨大な量のビラをまき、数百万枚のポスター、財界からの支援で購入した飛行機を使った遊説や当時はまだ新しいメディアだったラジオなどで国民に鮮烈なイメージを残した。第1次選挙の結果はヒンデンブルク1865万1497票(得票率49.6%)、ヒトラー1133万9446票(得票率30.2%)、テールマン498万3341票(得票率13.2%)、デュスターベルク255万7729票(得票率6.8%)、ヴィンター11万1423票(得票率0.3%)となり、ヒトラーは他の候補と大きく差をつけた2位となっただけでなく、現役大統領ヒンデンブルクの得票率過半数獲得を防ぐ善戦をした。 しかし大統領になるには過半数の得票率が必要であったため、上位者3名による決選投票が行われた。その投票でヒンデンブルク1935万9983票(得票率53.1%)、ヒトラー1341万8517票(得票率36.7%)、テールマン370万6759票(得票率10.1%)をそれぞれ獲得した。ヒトラーはヒンデンブルクに敗れたものの、1次選挙よりも大きく得票を増やして存在感を見せつけ、ドイツ共産党にとってはナチ党との差が決定的となったことを物語る選挙となった。 続く1932年7月の国会議員選挙では、ナチ党は37.8%(1930年選挙時18.3%)の得票率を得て230議席(改選前107議席)を獲得し、改選前第1党だったSDPを抜いて国会の第1党となった。
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