ナチ党入党、党の学生指導者に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 08:05 UTC 版)
「バルドゥール・フォン・シーラッハ」の記事における「ナチ党入党、党の学生指導者に」の解説
1925年3月22日、ヴァイマルで国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党首アドルフ・ヒトラーが演説を行った際、シーラッハは上述の「クナーベンシャフト」メンバーとしてその集会場の警備をしていた。ヒトラーの演説を聞き、ヴェルサイユ条約打破を熱く語る姿勢に共感を覚えた。演説後、ヒトラーに個人的に紹介される機会を得た。ヒトラーとシーラッハは、手を握り合い、見つめあった。感激したシーラッハは完全にヒトラーの崇拝者となった。1925年5月9日に18歳になると同時にナチ党に入党した。1925年7月にヒトラーの『我が闘争』の第一巻が出版されると彼は暗記するほどに読み込んだという。 ヴァイマルのギムナジウムを出た後、両親はその後の進路をシーラッハに任せた。ヒトラーから「私のいるミュンヘンに来てくれ。我々には君のような人材が必要だ」と誘われたシーラッハは、1927年にミュンヘンへ移住した。父親のコネでミュンヘンでも上流階級のサロンに出入りを許された。またヒトラーの勧めでミュンヘン大学に入学し、英文学、美術史、エジプト学などを学んだ。シーラッハは1928年夏にアメリカ・ニューヨークを訪問し、叔父アルフレッド・ノリスから彼の経営する銀行で働かないかと勧められているが、拒否している。アメリカ人の母エマも息子にアメリカで働いてほしがっていたが、シーラッハの意思は変わらなかった。彼のヒトラーへの忠誠はすでに揺るぎないものになっていたのだった。 ミュンヘン大学でシーラッハはわずかな期間で精力的に支持者を集め、まもなくミュンヘンの学生グループのリーダーとなった。ナチ学生同盟指導者ヴィルヘルム・テンペルとの権力闘争にも勝利し、1928年7月20日には選挙によってナチ党学生連盟指導者に選ばれた。しかし「ヒトラーユーゲント」は彼の指揮下になく、ヒトラーユーゲント団長クルト・グルーバーと権力争いをするようになった。グルーバーは、ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルスなど党幹部から無能と見なされ、ついには失脚した。一方シーラッハはナチスを支持する学生を順調に増やし、ヒトラーからますます高い評価を得るようになっていた。 1931年10月30日にナチ党全国青少年指導者(Reichsjugendführer der NSDAP)に任命された。この時点でも「ヒトラーユーゲント」は指揮下になく、ユーゲントはアドリアン・フォン・レンテルンが指導していた。1932年3月31日には党専属写真家ハインリヒ・ホフマンの娘ヘンリエッテ(愛称ヘニー)(1913-1992)と結婚した。ヒトラーとエルンスト・レームが結婚立会人を務めている。 1932年1月24日にはベルリンでヘルベルト・ノルクス(ドイツ語版)という15歳のナチ党員がナチ党のポスターを貼っていた際に共産主義者に刺殺される事件が発生した。シーラッハとゲッベルスはただちにこの少年の英雄化を行った。シーラッハはノルクスの墓参りを毎年欠かさずに行った。
※この「ナチ党入党、党の学生指導者に」の解説は、「バルドゥール・フォン・シーラッハ」の解説の一部です。
「ナチ党入党、党の学生指導者に」を含む「バルドゥール・フォン・シーラッハ」の記事については、「バルドゥール・フォン・シーラッハ」の概要を参照ください。
- ナチ党入党、党の学生指導者にのページへのリンク