ナチ党の政権掌握後
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「国旗団 (ドイツ社会民主党)」の記事における「ナチ党の政権掌握後」の解説
つづく1933年1月30日、国会で第一党を占めていたナチ党の党首アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領より首相に任命された。社民党にも労働組合総同盟にも国旗団にも衝撃が走った。ヘルターマンはただちに抵抗組織を編成する予定の隊員達に待機命令を出し、軍需工場から各都市の隊員たちへ武器の輸送を急がせた。社民党や労働組合総同盟の各支部にも蜂起やゼネラル・ストライキの準備に入るところが多かった。 しかし社民党党首ヴェルスはゼネストや蜂起に懐疑的で、「もろもろの決起計画、とりわけ夢想家の国旗団団長ヘルターマンの一派が主張しているような計画は素人の生兵法である。ヒトラー首相就任前まで党が立てていた蜂起計画はすべて警察が協力してくれることが前提になっていた。しかしすでに警察も国防軍もヒトラー側についている。わずかな武器で国防軍と警察と突撃隊と鉄兜団に挑もうなど正気の沙汰ではない」と一蹴した。 また与党のナチ党とドイツ国家人民党は国会で合わせて過半数近くを握っているが、社民党は全議席の五分の一強を獲得しているに過ぎなかった。第二党の野党社民党が国民から一番信任されている第一党の与党ナチ党を武力で打倒することなど民主主義を標榜する社民党には考えられなかった。そもそも国旗団からして「もし次の選挙でヒトラー内閣が多数を占めたとしても、それは民主主義的手続きに従って決定された国民の意思なのである」と論評していた。 ヒトラー内閣が誕生してまもない1933年2月1日には国会が解散され、選挙戦に突入していた。社民党は武装蜂起やゼネストを選択せず、「投票用紙でファシズムと戦う」ことを明言した。国旗団は社民党の党集会の警備にあたった。また1933年2月17日から18日にかけて国旗団はベルリンで最後の同盟総集会を開催した。社民党員や国旗団などの努力の下、3月5日の選挙で社民党は120議席で踏ん張った。しかし対するナチ党は過半数に近い288議席を獲得し、連立与党の国家人民党と合わせて半数を超えていた。 この選挙の直後にナチ党政権は国旗団と鉄の戦線の活動を禁止した。6月には社民党そのものも解散が命じられた。社民党や国旗団の残党はナチ党政権によって次々と狩られ、強制収容所へと送られていった。 国旗団の一部は地下に潜って社会民主主義のレジスタンス組織となった。ハンブルクでテオドール・ハウバッハ(ドイツ語版)らが組織した「社会主義戦線」などがその一例である。ハウバッハは1944年に逮捕されて人民法廷にかけられ、翌45年に処刑された。
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ナチ党の政権掌握後
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「ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフ」の記事における「ナチ党の政権掌握後」の解説
1933年1月30日、ナチ党党首アドルフ・ヒトラーが首相に任命され、政権を掌握した。 1933年3月にはプロイセン州内相ヘルマン・ゲーリングの指示によりドイツ共産党本部リープクネヒト館(ドイツ語版)の接収の指揮にあたった。接収後は突撃隊の建物として使用した。 1933年3月から1935年7月にかけてポツダム警察長官(Polizeipräsident in Potsdam)に任命された。1933年4月から1937年1月にかけて突撃隊最高指導部の突撃隊指導者特務部隊指導者(SA-Führer z.V)となる。 1933年11月から1944年7月の解任までナチ党候補者名簿から国会議員に選出された(1938年4月以降第2選挙区(西ベルリン選挙区)から選出される)。 1935年7月から1944年7月の解任までベルリン警察長官(Polizeipräsident in Berlin)に任命された。
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