ライプシュタンダルテ創設
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「ヨーゼフ・ディートリヒ」の記事における「ライプシュタンダルテ創設」の解説
ナチ党の政権掌握後の1933年3月17日にヒトラーはディートリヒに120名の選抜された親衛隊員から成る護衛部隊、親衛隊司令部衛兵隊「ベルリン」 (SS-Stabswache "Berlin")」の創設を命じた。同部隊はディートリヒが指揮する親衛隊護衛コマンド「総統(デア・フューラー)」を改組して創設された。 同部隊は二個中隊に増員されるとリヒターフェルデ(de)にあった旧士官学校を兵営として定められ、ここで三個親衛隊中隊が加えられて大隊編成となり、ポツダムの国防軍から訓練を受けた。給料や待遇も軍と同等とされた。 さらにツォッセンやユッターボクの親衛隊大隊と合流して連隊編成となり、9月3日のニュルンベルク党大会において「アドルフ・ヒトラー親衛隊連隊」 (Adolf Hitler-Standarte) の名前を与えられた。 ついで1934年4月13日には「ライプシュタンダルテ(身辺護衛連隊)・SS・アドルフ・ヒトラー」(Leibstandarte SS Adolf Hitler, 略称LAH)の名称を与えられた。 初期のライプシュタンダルテには身長180センチ以上などの厳しい入隊条件があった。またヒンデンブルクの死後、国防軍がヒトラーに対して行う忠誠宣誓より厳格な宣誓が起草された。そのためライプシュタンダルテには一貫してエリート部隊という印象があった。 ライプシュタンダルテは実質的に親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーから独立した存在であり、ヒトラーに対してのみ責任を負う個人的な護衛部隊であった。そのため発足時から部隊の指揮権をめぐってディートリヒとヒムラーとの間に争いがあった。
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