ライプシュタンダルテの拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 09:37 UTC 版)
「第1SS装甲師団」の記事における「ライプシュタンダルテの拡大」の解説
1934年4月13日、親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーは、部隊が軍とSAから独立した組織であることを示すため、部隊名にSSを付けるよう命じ、最終的に『ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー(Leibstandarte SS Adolf Hitler 略:LSSAH 日:SS・アドルフ・ヒトラー身辺護衛連隊)』となった。 6月の終わりにLSSAHは、最初の出動を命じられた。突撃隊幕僚長エルンスト・レームは、国軍に代わる突撃隊の国民軍化といった配下の組織の拡大を要求し始めていた。ヒトラーは一時、突撃隊を説得しその後、ヒムラーとヘルマン・ゲーリングに命令を下した。二人の精鋭部隊、ヒムラーのLSSAHとゲーリングの『ランデスポリツァイグルッペ・ゲネラル・ゲーリング(Landespolizeigruppe General Göring 日:州警察集団ゲーリング将軍)』が行動に移った。LSSAHはユアゲン・ヴァグナーとオットー・ライヒの指揮下、2個中隊を編成し6月30日にミュンヘンへ移動した。 ヒトラーは、全ての突撃隊の指揮官に休暇を命じ、ミュンヘン近くのバドヴィッセにあるハンゼルバオアーホテルで行われる会合に出席するように命じた。6月30日、ヒトラーはディートリッヒ及びLSSAHからの部隊と合流し、レームの逮捕と処刑を命じるためバドヴィッセに向かった。LSSAHの実行中隊はゲーリングの警察部隊と共に、死の部隊として数日間裁判なしで多くの処刑を実行した。ナチ当局はこれを『レーム事件、通称「長いナイフの夜」)』と呼び、ラジオ放送等の声明を通じて粛清の正当性を主張した。1934年7月13日までに少なくともレーム以下177名のSA幹部が処刑された。 LSSAHとゲーリングの部隊による行動は、ヒトラーにとって障害であった、突撃隊の脅威を効果的に取り除くことに成功した。「長いナイフの夜」の「成功」に伴い、LSSAHは名実ともに連隊(Standarte, シュタンダルテ)規模に拡張され11月の終りまでに3個大隊、オートバイ中隊、迫撃砲中隊、装甲車小隊の自動車化部隊に拡大した。そしてSSは突撃隊の統制下から完全に離れ、新しい志願者が多く募った。LSSAHは、ナチズムのアーリア民族至上主義を反映し、志願者は厳格な募集規則により心身とも強固で熱心な党員であるアーリア系血統の者のみ認められた。 LSSAHはニュルンベルク党大会や総統官邸の儀仗隊などを勤め、1935年にザールラント併合、1938年には、オーストリア併合、ボヘミアとシレジアに挟まれたズテーテン地方の進駐にも参加した。 1939年1月、「ライプシュタンダルテ舞踏会」がベルリン動物園で開催された。ディートリッヒは部下とともに、有名な俳優ハンス・アルバース、ハインリッヒ・ゲオルゲ、ケーテ・フォン・ナギーを用いて、この祭典を企画した。このときの主賓は、ドイツ陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュだった。 ヒトラーが1939年中頃にSS師団の編制を命じた時、ライプシュタンダルテは、親衛隊特務部隊 (SS-VT) のSS連隊ドイッチェラント、SS連隊ゲルマニア、SS連隊デア・フューラーとは異なる独自の編制を指示された。LSSAHは兵力を増強され『歩兵連隊(自動車化) ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー(Infanterie-Regiment (mot.) „Leibstandarte SS Adolf Hitler“)』と改称した。しかしポーランド危機はSS師団の編制計画を延期させ、LSSAHはポーランド侵攻を準備する南方軍集団麾下の第XIII軍団に所属した。
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