突撃隊幕僚長
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突撃隊幕僚長(とつげきたいばくりょうちょう、SA-Stabschef)は、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP, ナチ党)の準軍事組織である突撃隊で用いられていた階級および役職である。ドイツ国防軍の階級では、上級大将に相当する[1]。
- ^ Campbell 1998, p. 163.
- ^ McNab 2009, p. 15.
- ^ 阿部良男、169p
- ^ McNab 2009, pp. 14, 15.
- ^ Flaherty 2004, p. 148.
- ^ McNab 2009, p. 14.
- 1 突撃隊幕僚長とは
- 2 突撃隊幕僚長の概要
突撃隊幕僚長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 07:59 UTC 版)
「ヴィクトール・ルッツェ」の記事における「突撃隊幕僚長」の解説
1934年7月1日付けでレームに代わって突撃隊幕僚長に任じられた。ヒトラーの指示にしたがってクルト・ダリューゲ親衛隊中将にドイツ東部での突撃隊の解体と再編を依頼することになった。ダリューゲによって突撃隊最高指導部の主要な政治部門はすべて解体され、その財産も提出させられた。事件後の突撃隊は親衛隊に組み入れられて急速に衰退し、青年の肉体訓練、国防軍入営者への軍事教練、行政機関や大管区の印刷物の配布、パレードなど政治的な影響力のない分野に限定された。 ルッツェは事件以降も、粛清の執行にあたった親衛隊に根深い憎悪を抱き続けた。1935年8月17日にはシュテッティンにあるホテルのレストランでの親衛隊将校もいる席上で、「ドイツ人は正義を好む。1934年6月30日の邪悪な行為にはいつか報復があるだろう」、「レームのやろうとしたことを気狂いかのように煽りたてたのは誰なのか。突撃隊ではない。罪深いのはもう一つの側だ。私はその名前を言える」「私は引き下がらない。たとえ強制収容所へ送られたとしてもだ」などと、親衛隊を非難する演説をはじめ、親衛隊将校に押しとどめられる場面があった。 1938年にブロンベルク罷免事件が発生すると、ルッツェは親衛隊に失脚させられたヴェルナー・フォン・ブロンベルク元帥とヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将、またフリッチュの後任として陸軍総司令官になったヴァルター・フォン・ブラウヒッチュと接触し、彼らを親衛隊攻撃計画に誘っている。ヨーゼフ・ゲッベルスも日記で「ルッツェはブラウヒッチュを先鋭的な反SS運動に巻き込もうとしている。彼はいたるところでSSを非難し、不平不満を漏らし、SAが差別されていると信じている。彼は誤った道に踏み込んだ」と、この事について触れている。 1938年11月の水晶の夜の際、ルッツェはゲッベルスの指示を無視して突撃隊の集団指導者たちに対して反ユダヤ暴動に参加しないよう命じていたが、結局多数の突撃隊員が党政治指導部の命令で暴動に参加した。 1943年5月1日、自動車を運転中だったルッツェはポツダムの近くで交通事故を起こした。同乗していた長女インゲが死亡し、ルッツェも重傷となった。ポツダムの病院へ搬送されたが、翌日の晩には息を引き取った。52歳だった。突撃隊幕僚長の地位はヴィルヘルム・シェップマンが継承した。ルッツェにはナチ党の最高勲章であるドイツ勲章が追贈された。
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