突撃隊と軍部の争い
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「長いナイフの夜」の記事における「突撃隊と軍部の争い」の解説
エルンスト・レームは、貴族やユンカーが幹部を占める今の正規軍「国軍(Reichswehr)」では、ヴェルサイユ条約を打破して再軍備がかなったとしても結局、旧プロイセン王国的な旧式軍隊にしかならず、近代戦争に対応できる軍隊にはならないと考えていた。彼が理想とするのは国民軍の形態であった。突撃隊は5つの突撃隊上級集団(軍隊の「軍団」に相当)と18の突撃隊集団(「師団」相当)で構成され、国軍の5倍にあたる兵力を保持し、軍隊と同等の規律を有し、その指揮官達は元将校たちで占められていた。いつでも国軍(Reichswehr)に取って代わることができる状態であった。 軍部は突撃隊を警戒しつつも初めは利用を考えた。国防省軍務局長ヴァルター・フォン・ライヒェナウ少将は突撃隊を東部の国境警備の民兵にしたり、国軍の予備戦力にしたりするため、突撃隊と接触し、1933年5月には突撃隊と国軍はその旨の協定を結んでいる。協定では突撃隊は国軍の管轄下になるはずであったが、レームはやがて東部国境での独立的な指揮権と武器庫監督権を主張するようになり、国軍と対立を深めた。 1934年2月にレームは国防省に覚書を送ったが、内容があまりに過激であったため、国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルク上級大将は、司令官会議の席上「レームが全国の国防組織をSAの傘下に入れ、国軍をただの訓練機関にしようとしている。」と結論するに至った。このためブロンベルクはついにヒトラーの裁可を仰ぐこととした。 ヒトラーとしても、軍との連携を必要不可欠と考えており、そのためにもレームとSAの処遇を決定する必要があったが、レームの粛清に乗り気でないヒトラーは、まずは国軍と突撃隊を和解させようと試みた。1934年2月28日、ヒトラーは、ブロンベルク以下国防省幹部とレーム以下突撃隊幹部を国防省に集め、両者に和解を求めた。二人はヒトラーを前にして「ドイツの唯一の武装兵力は国軍(Reichswehr)であり、突撃隊(SA)は軍事活動の準備や補修訓練にあたる」ことで合意し、一応握手をした。しかしレーム達突撃隊幹部が協定を守る様子はなく、引き続き国軍と突撃隊の睨み合いが続いた。以降ライヒェナウなどの国軍幹部は突撃隊の粛清を企む親衛隊(SS)に接近して粛清の準備に協力することとなる。
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