突撃飛行隊
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「フォッケウルフ Fw190」の記事における「突撃飛行隊」の解説
1943年、ドイツ空軍はコンバット・ボックス(密集防御編隊)を組んだアメリカ第8航空軍重爆撃機編隊と直面した。このB-17およびB-24 (航空機)の重防御・高火力に対抗する戦術が必要であった。コンバット・ボックスは、1個中隊6機を3グループ集合させた15-18機で構成され、どの方向にも30-40門の機銃による防御射撃が可能だった。このボックスはおおよそ全長189m、全幅342m、全高270m程度となる。またこれを上下3段に重ねた、45-54機による「コンバット・ウイング」を構築、、これを連ねた数百機の大編隊による攻撃が行われていた。 参謀本部で戦闘機隊総監アドルフ・ガーランドを補佐していたハンス=ギュンター・フォン=コルナツキ(KORNATZKI コルナルツキ、コルナッキー)少佐(のち、中佐)は、これを迎撃するための「突撃飛行隊」(Sturmgruppen)の設立を提案した。第二次大戦に途中から参戦したアメリカの重爆撃機はイギリスのそれより爆弾搭載量こそ少ないが、防御火力および防弾性能に優れており、従来のロッテ(2機編隊)やシュヴァルム(4機編隊)単位による攻撃では、コンバット・ボックスを崩す事は容易でないと考えられた。このため1個飛行隊(3個飛行中隊)が敵重爆撃機の防御火力の比較的弱い正面から編隊攻撃を行い、大打撃と共に敵重爆撃機搭乗員に精神的圧迫を与え、戦術的にはコンバットボックスの防御を機能不全に陥らせ、作戦的にはアメリカ爆撃機群に対する継続的な損害を与え、機材の補充によっても許容し得ないほどの出血を強いるという作戦であった。 1943年10月19日に第1突撃飛行中隊(シュトルムタッフェル)が創設された。ドイツ空軍の場合、中隊は12機で編成されており、実験的な兵力であった。パイロットは可能な限り敵編隊と肉薄し、必要とあらば体当たり攻撃も辞さずに敵重爆撃機を撃墜することを宣誓した。ただしこの宣誓は多分に儀式的な意味合いが含まれており、宣誓書に署名させられるようなことはほとんど無かったか、または署名せずとも特に咎められることもなかった。IV./JG3飛行隊長ヴィルヘルム・モリッツ大尉は、国防軍の将兵は入隊時既に国家への忠誠と献身を宣誓しており、重ねてのこの様な宣誓など無用と、署名済みの宣誓書を焼き捨てたとされる。参加パイロット数は15名から18名であった。彼らは1944年2月末までに訓練を終え、1944年1月または3月より本格的な作戦を開始した。 第1突撃飛行隊による実験の結果、突撃飛行隊の有効性は高く評価され、1944年4月始めには第11戦闘航空団(JG11)と第1戦闘航空団(JG1)「エーザウ」に新たに突撃中隊が置かれた。さらに4月末または5月始めには第3戦闘航空団(JG3)「ウーデット」に第IV飛行隊(突撃)および「モーリツ」突撃飛行隊が設けられた。第IV飛行隊は第10,第11(旧第1突撃飛行中隊が編入)と第12中隊からなり、兵力は計36機である。1944年7月頃には第300戦闘航空団(JG300)第II飛行隊、第4戦闘航空団(JG4)第II飛行隊も突撃飛行隊とされ、後者については1944年春に中佐となった突撃飛行隊創案者・コルナツキが指揮官となった。なおコルナツキは第4戦闘航空団第2飛行隊に所属していた1944年9月13日、敵護衛戦闘機に撃墜され、不時着を試みるも高圧電線に接触し墜落、戦死している。 突撃飛行隊の戦術には当初正面攻撃が用いられていたものの、相対速度が高いため射撃を行える時間が少なく、パイロットにも高い技量が求められた。そこで敵重爆撃機の防御火力は強力となるが、後方から攻撃を行うことが一般的になった。後方攻撃への方針変換は1944年4月または5月、第3戦闘航空団第III飛行隊長のダール少佐の発案による。また白石 (2009)の文献によればコルナツキの発案により当初から後方攻撃が用いられたともされる。この攻撃は全機が火力を発揮するため一列横隊または鏃型の編隊を組み、敵コンバット・ボックスの後方に肉薄し攻撃を加えるものであった。攻撃後は上方または下方に離脱する。突撃飛行隊の特筆すべき戦闘として、1944年7月7日に第3戦闘航空団第4飛行隊が44機をもってB-24を迎撃、後方よりのわずか1航過の攻撃で、12機ものB-24を屠ったという事例がある。 体当たり攻撃も実際に行われ、敵の主翼に軟着陸しそれを切断する方法や、尾翼にプロペラやエンジン部を衝突させ破壊する方法が推奨された。これは重装甲を誇る突撃型Fw 190であればパイロットの生還は十分に期待できるものであり、献身的行動ではあるが、自殺的作戦ではない。 なお実戦で体当たり攻撃が行われ、そして同時に体当たりを行ってもパイロットが生還(パラシュートによる脱出・降下)できることが証明されたのは1944年の1月30日の迎撃戦、鈍重な突撃仕様機が敵戦闘機の撃墜を報告したのは1944年4月11日のことであり、いずれも第一飛行中隊の戦果である。 突撃隊の訓練に用いられた機体はMG 151/20 20mm機関砲4門、MG 17 7.92mm機関銃2丁を装備するA-6型に、防弾ガラスを装備するなど装甲を強化し、アメリカ軍重爆撃機の装備するブローニングM2 12.7mm機関銃に対抗できるようにしたもので、シュトルムイェーガー(突撃戦闘機、嵐の狩人)と呼ばれた。ただしMG 17 7.92mm機関銃は、重爆撃機に対して効果が薄く、同時に装甲強化により増加した重量に対する対策のため、撤去される例も多かった。また側面防弾ガラスは視界が狭くなり、高々度に上がると従来のガラスと増設したガラスの間に氷が張る弱点があることから「目隠し」と呼ばれ、パイロットにより外されることが多かった。その後A-7/R2(外翼の20mm機関砲を30mm機関砲に換装したタイプ)を経て、A-8/R2、およびA-8/R8、「シュトルムボック」(破城槌または破壊槌)が開発・配備されるに至った。この機体の武装は13mm機関銃2丁、20mm機関砲2門、30mm機関砲2門を備え、装甲としてキャノピー前面に50mm、側面に30mmの防弾ガラス、コックピット周辺の5mm鋼板、両翼の機関砲前面に20mm鋼板を装備した。このような重防御のため、機重は250キログラム以上増加していた。30mm機関砲は敵重爆撃機には効果的であったが、これらの機体は重量の増加から敵戦闘機との空戦が相当に困難となっており、通常の戦闘機仕様のFw 190、またはBf 109による護衛を必要とした。突撃飛行隊1個につき、通常の戦闘機により編成された飛行隊が2隊ついたという。なおR-8型はR-2型の防弾ガラスなどの装甲を強化し、その代償として機首の13mm機関銃を撤去したものである。白石(2008)によれば、機銃を撤去しない状態で、A-6型と、武装を強化したA-8/R8(フラッペによればR-2型に相当する)型の火力を比較すると、前者が3秒あたりの投射弾量が37ポンド(約16.8kg)、後者が74ポンド(約33.6kg)と、単純には単位時間あたりの弾量は倍増している。また、30mm機関砲 Mk 108は破壊力はあるものの弾頭重量が重く初速が低いため弾道性能がよくなかったが、200m以下での近接射撃を基本とする突撃飛行隊にはこの点は問題とならなかった。 連合軍側では突撃飛行隊を(少なくとも当初は)「ウルフ・パック攻撃」(群狼攻撃)として恐れたという。連合軍側もこの突撃飛行隊については相応の評価を見せており、例えばアメリカ第8空軍では1944年11月2日の戦闘において、突撃飛行隊により、戦闘機による損害全体の1/4にあたる6機または7機の、そしてたった一つの突撃飛行隊のためにさらに21機のB-17を撃墜され、合計で27機程度の4発重爆撃機を失ったとしている(第8空軍の公式戦史はこの日の爆撃機の損害を合計40機としているが、ジルビッヒ (1994) はこれは過小なのではないかとしている)。なおこの代償としてドイツ空軍は2つの突撃飛行隊から24-30機を失い、戦闘機全体では98-120機を失っている。 戦争末期には敵護衛戦闘機の厚い壁に阻まれ、あまり戦果はあがらなかった。上述の11月2日の戦闘には600機ものP-51とその他若干の護衛が付き、これを迎撃したドイツの戦闘機500機は大きな損害を被っている。また、1945年3月24日の戦闘では、第300戦闘航空団第II飛行隊は20機もの損害を被ったが、敵にはほとんど打撃を与えられなかった例などが、文献に紹介されている。
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