突撃隊問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:52 UTC 版)
「ナチス・ドイツの軍事」の記事における「突撃隊問題」の解説
「長いナイフの夜」も参照 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)はドイツ最大の準軍事組織である突撃隊を抱えており、また突撃隊幕僚長エルンスト・レームは突撃隊を新たな軍の母体にする構想を持っていた。このため軍首脳は突撃隊の存在が唯一の武装勢力としての軍の存在を脅かしかねないと考えていた。2月1日にヒトラーは軍が偉大なる過去の象徴であり、突撃隊や親衛隊と合併することは考えていないと説明した。また兵務局長宅の会談でも突撃隊や親衛隊は軍にならないと再度強調している。2月に国防相官房長となったヴァルター・フォン・ライヒェナウはナチ党に近く、突撃隊を国境防衛に動員する構想を立ち上げた。5月17日には軍・突撃隊の首脳とヒトラーが会談し、ヒトラーは突撃隊が軍の指揮の下国境防衛に就くよう命令した。この任務のため、突撃隊には小銃とピストルが支給されることとなったが、軍は唯一の武器保有者としての立場を示し、あくまで任務に必要な間だけ供給されるものであるとされた。7月1日のバート・ライヘンハル(ドイツ語版)の突撃隊・親衛隊指導者会議でこの方針は正式に伝達され、6月前に結成された国境防衛組織に突撃隊と鉄兜団、前線兵士同盟が参加することとなった。 ヒトラーは「SA(突撃隊)は決して軍に取って代わろうとしたり、軍と競争してはならない」と言明している。レームも表面的にはこれに応えていたが、突撃隊と軍の暗闘は続いた。レームは「ドイツ青年鍛練管理局」を突撃隊に編入させて「SA訓練機関」とし、民兵組織権を手に入れようとした。ライヒェナウは組織の監督権を掌握することでSA訓練機関を軍の影響下におくことに成功したが、レームら突撃隊はなおも不満であった。 ヒトラーはアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの攻撃的兵器全廃提案を賞賛し、5月17日には「大平和演説」と呼ばれる世界規模の軍縮を支持する演説を行ったが、これは外交的なポーズに過ぎなかった。そして10月14日には世界軍縮会議で突撃隊と親衛隊が軍人扱いされたことを口実として、ドイツは軍縮会議と国際連盟を脱退した。ヒトラーはこの頃から徴兵制再施行を構想していたが、これは軍事力の強化とともにレームの政治的影響力をそぐねらいがあった。 しかしレームの強硬姿勢は変わらず、1934年2月には「国土防衛は突撃隊の管轄である」という覚え書きをブロンベルクに送付している。2月28日にはヒトラー・軍・突撃隊首脳の最終会議が行われた。この席で突撃隊は国境防衛に不適格であり、徴兵制施行までの過渡的措置として防衛任務に当たるに過ぎないと決定された。レームらはこの「新しいヴェルサイユ条約」の決定に不満であり、また国防省および陸軍もレームとの協力は不可能であると考えるようになり、結束してレーム排除に動き出すこととなる。 レームは「第二革命」を唱え、各地で突撃隊と軍の衝突事件が頻発した。一方でゲーリングと親衛隊がレーム排除のための計画を立て、ライヒェナウら軍もこれを支援した。6月30日から7月2日、「長いナイフの夜」と呼ばれる突撃隊粛清が行われ、突撃隊問題は終結した。7月25日にはオーストリア・ナチスがオーストリア首相エンゲルベルト・ドルフースを殺害するクーデターを起こしているが、この実行犯にライヒェナウ、陸軍司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュらが武器を供与し、この時期のナチ党と軍の「共犯関係」がかなり密接であったという見解も存在している。
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