飛行隊長 (第二次世界大戦ドイツ空軍)
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飛行隊長(ひこうたいちょう) とは第二次世界大戦のドイツ空軍の戦闘機部隊における戦闘航空団 (Jagdgeschwader) に次ぐ戦闘機部隊の単位である飛行隊 (Gruppe) の指揮官の呼称である Gruppenkommandeur の訳語の一つである。飛行隊は空軍大尉、もしくは空軍少佐が指揮する。他の訳語としては、第 xx 飛行群の司令官、第 xx 飛行連隊長、第 xx 飛行大隊の第 xx 集団長と内容的に大きく幅のある訳語が充てられ、読者を混乱させることがある。保有戦闘機数等の編制については戦闘航空団司令を参照。
- 英空軍の Wing Commander に相当する。
関連項目
飛行隊長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/26 08:02 UTC 版)
1942年5月1日、ブレントルは第3戦闘航空団(英語版)第II飛行隊飛行隊長に就任したが、前任のカール=ハインツ・クラール(英語版)は4月14日に戦死したため、急遽彼が充てられることとなった。5月18日に東部戦線に戻されたが、ケルチ半島の戦い(英語版)には間に合わなかった。そのため南方軍集団の左翼としてハリコフのチュグエフ(英語版)にある飛行場に拠点を置いた。5月20日に彼はソ連の偵察爆撃機R-5を撃墜したが、これは彼が東部戦線に戻ってから初の戦果であり、第II飛行隊にとっても東部戦線初の撃墜であった。この撃墜をもって彼は合計36機撃墜を記録している。7月1日には49機撃墜を称えて騎士鉄十字章が贈られた。また、彼はこの日にソ連の攻撃機Il-2などを撃墜し合計53機撃墜へと記録を塗り替えている。 この後もブレントルは記録を伸ばし続け、7月8日に3機撃墜、7月10日にさらに3機撃墜、7月16日には4機を撃墜している。また7月26日には5機を撃墜し、(彼は既にエース・パイロットであったが)1日でエース・パイロット(英語版)となった(第二次世界大戦におけるエース・パイロットの基準は5機以上の撃墜)。しかし直後にまた1日で5機撃墜を達成している。 8月23日には総撃墜数が102機となり、ドイツ空軍17人目の総撃墜数100機越えのエース・パイロットとなった。この戦功により8月27日に柏葉付騎士鉄十字章を受章したが、授与はアドルフ・ヒトラー直々によるものであった。 ブレントルは1943年3月1日に少佐へ昇進した。4月29日には総撃墜数135機を記録している。クルスクの戦いに際しては初日で5機撃墜し、総撃墜数は151機となった。また、彼の第II飛行隊はこの戦いで77機撃墜したが、7月12日に撃墜した航空機がこの飛行隊にとって大戦通じて2,000機目の撃墜であった。
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