戦闘航空団司令
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戦闘航空団司令(せんとうこうくうだんしれい)とは第二次世界大戦におけるドイツ空軍の戦闘機部隊の単位である戦闘航空団(約120機)を率いる指揮官の呼称 Jagdgeschwaderkommodore の訳語の一つである。 イギリス空軍の戦闘機軍団の部隊単位である戦闘機群の司令官 (Group Commander) に概ね該当する。
戦闘航空団
戦闘航空団は基本的に三個飛行隊 (I.Gruppe, II.Gruppe, III.Gruppe) から成る。数字はローマ数字が使われる。一個飛行隊の保有機数は36機。
- 第I飛行隊は第1から第3中隊 (1.Staffel, 2.Staffel, 3.Staffel) 一個中隊の保有機数は12機。
- 第II飛行隊は第4から第6中隊 (4.Staffel, 5.Staffel, 6.Staffel)
- 第III飛行隊は第7から第9中隊 (7.Staffel, 8.Staffel, 9.Staffel)
例えば、5./II./JG11 とは第11戦闘航空団・第II飛行隊・第5中隊と読み解く。ドイツ語では英語と異なり、数字の後にドットを置き、序数を表現する。
第二次大戦後期においては、特に昼間爆撃に対する迎撃任務を担当した戦闘航空団において、対爆撃機戦闘専用の重装型単座戦闘機を装備した第Ⅳ飛行隊(突撃)が創設される例が見られた。
文献
- 野原茂『ドイツ空軍エース列伝』光人社、2003年、ISBN 4-7698-1152-7
関連項目
- Luftwaffe(独語)
- Luftwaffe Organisation(英語)
- No. 11 Group RAF(英語)第11戦闘機群
- 飛行隊(航空自衛隊の部隊単位)
戦闘航空団司令
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「ヘルベルト・イーレフェルト」の記事における「戦闘航空団司令」の解説
5月11日、フリードリヒ・ベックに代わりJG 52の戦闘航空団司令に任命され、I./JG 77の飛行隊長はオスカー=ハインリヒ・ベールが後任となった。この任命に先立ち、カール=ゴットフリート・ノルトマン大尉の下に第51戦闘航空団本部小隊の訓練担当指揮官として派遣された。6月、イーレフェルトは少佐に昇進し、6月26日にはJG 52の指揮を執った 。7月22日、Fi 156 シュトルヒを飛行中にソ連戦闘機によって撃墜され重傷を負い、前線から離れた。1943年7月21日、デ・ハビランド モスキートの迎撃用に新たに設立された第25戦闘航空団(JG 25)に戦闘航空団司令として復帰した。 1944年2月1日、中佐に昇進。5月1日、一時的に第11戦闘航空団(JG 11)の戦闘航空団司令となった。5月11日にヴァルター・エーザウ大佐が戦死して以来、第1戦闘航空団(JG 1)を戦闘航空団司令として指揮していたベールに代わり、5月20日にJG 1の戦闘航空団司令になった。7月14日、マスタングとスピットファイアを撃墜し、7月25日にアブロ ランカスターとスピットファイアを撃墜した。
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