戦闘機隊総監
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:53 UTC 版)
「アドルフ・ガーランド」の記事における「戦闘機隊総監」の解説
1942年2月、フランスのブレスト港のドイツ艦隊をドイツ本国へ脱出させるツェルベルス作戦(英名チャンネル・ダッシュ)が実施され、ガーランドは艦隊の上空支援作戦を指揮した。 1942年7月19日からスターリングラードに侵攻するがドイツは劣勢になる。ガーランドは「われわれ(戦闘機隊)がいくら敵を落としても爆撃隊が敵飛行機工場、施設をやってくれないときりがない」と空軍首脳部をなじった。 連合軍の爆撃機に対する本土防空作戦の指揮を任されたが、その中で戦闘機隊総監であるにもかかわらず、フォッケウルフ Fw190を乗機として幾度か防空作戦に出撃し1944年にはB-17を非公式に2機撃墜した。米英空軍によるドイツ本土都市爆撃に対しガーランドは「悪天候や闇夜をさけて条件のいい晴天の昼間に敵爆撃大編隊へ大規模な攻撃をかけるべき」と意見具申するが空軍首脳はこれを無視した。 1942年3月から英米の絨毯爆撃が始まる。4月にロストック、5月にケルン、6月にはブレーメンが灰燼に帰し、防空を任されていたガーラント、カムフーバーはヒトラーに叱責される。そのため2人は夜間機400機と昼間機200機を集めて大迎撃を試みる。敵の物量が圧倒的であり撃墜率は5、6パーセントであった。さらに敵はレーダーかく乱兵器「ウインド」を投入しドイツ防空は87機で撃墜率は3パーセント以下に落ちる。 1943年末ごろからB17といった大型機迎撃に対し現場で決死の体当り戦法が敢行されていること知ったガーランドは「肉薄攻撃はいいが体当たりすることはない。体当たりが必要なのは技術不足や相討ちの時だけだ。戦闘機パイロットは一朝一夕で養成できないので体当たりは避けるべきだ」と禁止を命令した。 1943年5月22日、ガーランドはジェット戦闘機メッサーシュミット Me262のテスト飛行を自ら行った。その加速性と高速性からMe262を戦闘機として高く評価したが、1943年に地上展示されたMe262を見たヒトラーはこれを爆撃機として生産するように命じる。ガーランドはミルヒとともに戦闘機としての運用が最適との判断から戦闘機としての開発が継続し、たびたびヒトラーを説得した。ガーランドは「Me262のような小型機に小型爆弾を積んでも無駄。アラド社が別に爆撃用を作っているのでMe262は防空戦闘機にするべき」と主張した。ヒトラーはノルマンディー上陸を受けて一部戦闘機とすることを認める。ガーラントは少数の実用実験部隊を作った。 少年兵をハインケルHe162のパイロットに使う案にガーラントは反対し、ジェット機の扱いの難しさをヴァルター・ノヴォトニー少佐に説明させてケラーに中止を進言した。ノヴォトニーは実戦の披露で戦死した。 1942年12月、ガーランドは少将に昇進。30歳でありドイツ軍最年少の将官であった。1944年11月には中将に昇進。ガーランドとゲーリングら空軍首脳はMe262やHe162の運用方針を巡って対立が激化し1945年1月、ガーランドは戦闘機隊総監を解任され、ゴードン・ゴロプが後任となった。
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