本土防空とは? わかりやすく解説

本土防空

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 01:42 UTC 版)

ドイツ空軍 (国防軍)」の記事における「本土防空」の解説

開戦当時ドイツ本土防空体制皆無等しかった当時ドイツ空軍総司令官であるヘルマン・ゲーリング豪語したように、「防空には高射砲」という考えあったからである。さらに、敵航空基地絶え間なく攻撃すれば、相手防空手一杯となって爆撃できないであろうという考え存在していた。1940年5月15日、その考え一変する真夜中ドイツ本土上空に英爆撃機出現しさらには肝心高射砲部隊上手く機能しなかったのであるこの後夜間戦闘機部隊レーダー防空網整備進められる中、イギリス空軍による大都市への夜間爆撃恒常化する。 大戦中期に、アメリカ軍参戦1942年アメリカ陸軍航空軍第8空軍など)による軍事施設対す昼間爆撃本格化したが、1943年シュヴァインフルト爆撃では、迎撃によりアメリカ側に耐え難い損害強いた護衛戦闘機随伴可能になった1944年からは、戦闘機隊を先行させて飛行場強襲するいわゆるスイープなどの対抗策講じられた。さらにノルマンディー上陸作戦で、フランス派遣され迎撃戦闘機基地占領されていくと、ドイツ空軍側は戦力維持難しくなっていった。さらに合成石油製造工場爆撃大きな打撃となり、その結果戦闘機製造される燃料が無いという悪循環陥った戦争末期近づくにつれ、連合軍による空襲はますます激化し1944年中には主な軍需工場集中していたルール地方焦土化したまた、イギリス軍による夜間爆撃に対しては、爆撃機であったJu 88夜間迎撃機改造して使用したジェット戦闘機開発進められたが、爆撃機仕様優先されたこともあり、実戦投入されたのは大戦末期差し掛かってからであった1943年7月24日から8月2日にはハンブルク空襲戦略爆撃機2865機が飛来し総量9,185トンもの爆弾投下死者5万人以上を数えた。この爆撃以降ドイツ本土都市目標にした大規模爆撃激化していった。

※この「本土防空」の解説は、「ドイツ空軍 (国防軍)」の解説の一部です。
「本土防空」を含む「ドイツ空軍 (国防軍)」の記事については、「ドイツ空軍 (国防軍)」の概要を参照ください。


本土防空

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/11 05:16 UTC 版)

IAR-81 (航空機)」の記事における「本土防空」の解説

1943年の夏までには、東部戦線すべての部隊からIAR-80IAR-81撤退ルーマニア国内の防空任務着いた徐々に戦闘機航空兵団Bf 109機種変更行い、第2・3・4・6航空機修理場は混成編成となった。二線級となっていたIAR-80IAR-81であったが、それにも拘らず、これらを装備した部隊その後も最も厳し情勢下において戦闘任務続けたルーマニア防空戦闘機は重要地点において数にも機材の質にも勝るアメリカ空軍相手善戦したプロイェシュティ油田への攻撃イタリアからP-38による攻撃始まり、のちには当時最大級爆撃機B-17、B-24がP-51やYak-9DDなどの長距離護衛戦闘機連れて飛来するようになったBf 109とともに迎撃上がったIAR-8081は、当初米軍機パイロットにFw 190誤認されていた。それまでソ連方面でしか使用されてこなかったIAR-8081は、米軍パイロットに未知の存在であったのであるIAR-8081のうち、特に強力な20 mm機関砲搭載し対爆撃機用の迎撃戦闘機特化されたIAR-80CとIAR-81Cは、対戦闘機用の迎撃戦闘機として用いられBf 109G/Gaの護衛のもと米軍大型爆撃機多数撃墜または強制着陸追い込み大きな戦果挙げたルーマニア最大軍事要衝であったプロイェシュティ石油施設を、連合国軍機はついに破壊することができなかった。米軍機は、そのかわり中立国であるスイスの非軍事施設ドイツ軍への協力理由爆撃破壊した1944年6月には、ドイツ要求により「シュピラールシュナウツェ(渦巻き鼻)」(Spiralschnauze)とよばれる黒字白線渦巻きを描くマーキングがプロペラー・スピナーに施された。これは正面方向からの枢軸国機の識別容易にするためのもので、様々な機種使用されるようになった大戦後期では初期増して敵味方の識別難しくなっていたことを反映した処置であった。だが、この指示徹底されたかどうかは不明である。 IAR-8081シリーズは、戦時中に539 機の撃墜記録残し、その他90 機の不確定撃墜168 機の強制着陸をさせたとされる一方220 機のIAR-8081が敵戦闘機対空砲火、その他アクシデントにより失われたIAR-8081駆る撃墜王誕生したIAR-8081防空戦に身を擦り減らしたプロイェシュティは、1944年8月23日ルーマニア連合国降伏するまで守り抜かれた。その後8月30日ソ連軍プロイェシュティ占領、翌8月31日にはブカレストへもルーマニア軍共同ソ連軍入ったルーマニアは、アメリカ地上軍初めドイツ本国領内侵入した9月12日米英ソとモスクワ休戦協定調印した

※この「本土防空」の解説は、「IAR-81 (航空機)」の解説の一部です。
「本土防空」を含む「IAR-81 (航空機)」の記事については、「IAR-81 (航空機)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「本土防空」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「本土防空」の関連用語

本土防空のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



本土防空のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのドイツ空軍 (国防軍) (改訂履歴)、IAR-81 (航空機) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS