本土絶滅へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 04:57 UTC 版)
日本では明治時代以降は乱獲、農薬による獲物の減少、山間部の水田の消失などにより大正時代末期には絶滅したと考えられていた。1926年には『新潟県天産誌』に「濫獲の為め ダイサギ等と共に 其跡を絶てり」と記され、翌1927年(昭和2年)には佐渡支庁がトキ発見を懸賞で呼びかけた。その後、昭和に入って1930年(昭和5年)から1932年(昭和7年)にかけて佐渡島で目撃例が報告され、1932年(昭和7年)5月には加茂村(→両津市、現・佐渡市)の和木集落で、翌1933年(昭和8年)には新穂村(現・佐渡市)の新穂山で営巣が確認されたことから、1934年(昭和9年)12月28日に天然記念物に指定された。当時はまだ佐渡島全域、能登半島、隠岐に分布しており、生息数は多くても100羽前後と推定される。 第二次世界大戦後は、1950年(昭和25年)を最後に隠岐諸島に生息していたトキの消息は途絶え、佐渡での生息数も24羽 と激減していたことから、1952年(昭和27年)3月29日に特別天然記念物に指定され、1954年(昭和29年)には佐渡で、1956年(昭和31年)とその翌年には石川県で禁猟区が設定された。しかし、禁猟区には指定されたものの生息地周辺での開発などは制限されなかった。 トキの減少の一因として農薬による身体の汚染(直接的影響)や、餌の減少(間接的影響)があげられる。1960年代に死亡したトキの体内から、有機水銀や有機塩素が確認されている(致死量かは不明)。一方、餓死した個体は確認されていない。日本で化学農薬が使用されるようになったのは1950年代以降 であり、その頃には既に20羽ほどにまで個体数を減らしていた。1953年に佐渡での生息数は12羽に半減し、これは農薬が広く使用されるようになった時期と一致するが、累積的濃縮による中毒とは考えにくい。 民間の佐渡朱鷺愛護会や愛好家の手でも小規模な保護活動が行われるようになったが、1958年(昭和33年)には11羽(佐渡に6羽、能登に5羽)にまで減少した。1959年には、天敵となるテンが人為導入された。1971年(昭和46年)には、能登半島で捕獲された「能里(ノリ)」が死亡し、佐渡島以外では絶滅した。 こうした激減の中で、個体群密度の減少によりアリー効果が起り、近親交配が繰り返されるようになったことが、産卵の失敗や孵化率の低さに影響したことも指摘されている。
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