本土決戦と一億玉砕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 16:15 UTC 版)
戦局が絶望的となると、軍部は「本土決戦」を主張し、「一億玉砕」や「一億(総)特攻」、「神州不滅」などをスローガンとした。なお既に1941年(昭和16年)から「進め一億火の玉だ」とのスローガンが使用されていたが、これらの「一億」とは、当時日本の勢力下にあった満洲・朝鮮半島・台湾・内南洋などの日本本土以外の地域居住者(その大半が朝鮮人や台湾人)を含む数字であり、日本本土の人口は7000万人程であった。 1944年(昭和19年)6月24日、大本営陸軍部戦争指導班は機密戦争日誌に以下の記載をした。 もはや希望ある戦争政策は遂行し得ない。残るは一億玉砕による敵の戦意放棄を待つのみ — 半藤一利「聖断 ―昭和天皇と鈴木貫太郎―」PHP研究所 p269 1944年(昭和19年)9月、岡田啓介は「一億玉砕して国体を護る決心と覚悟で国民の士気を高揚し、其の結束を固くする以外方法がない」と主張した。1945年(昭和20年)1月24日、近衛文麿は「昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候」と昭和天皇に警告した(近衛上奏文参照)。同年4月、戦艦大和の沖縄出撃は、軍内の最後通告に「一億玉砕ニサキガケテ立派ニ死ンデモライタシ」(一億玉砕に先駆けて立派に死んでもらいたい)との表現が使用され、「海上特攻」または「水上特攻」とも呼ばれた。
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