本土決戦準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 08:09 UTC 版)
第6航空軍司令部やその施設は福岡大空襲後、平尾の山中に移転することとなり、倉澤は7月10日付で鉾田教導飛行師団に転属がきまったため、残った特攻隊員も原隊に戻ることとなった。中には第22振武隊島津等少尉のように原隊に復帰後に、他飛行隊に転属が決まると、転属先の部隊長から「特攻生き残りの連中をここに置くわけにはいかん」と配属拒否されたり、片山少尉のように航空隊司令から「貴官らを迎えるのは誠に遺憾である」と嫌味を言われ冷遇された隊員もいた一方で。第21振武隊の上田克彦少尉は、館林の第194振武隊に配属されたが、飛行隊長の堀山久生中尉が上田の特攻出撃経験を敬い厚遇し、部下隊員の教育・指導を任された上に、上田の新婚間もない新妻を舘林に呼び寄せるように勧められ、軍の準備した旅館に同居することを許可されている。 倉澤が着任した鉾田教導飛行師団は、埼玉県の那須野陸軍飛行場に本拠地を移し、これより以北の奥羽地帯全域に至る諸航空隊を指揮下に入れる大所帯となったが、倉澤は第6航空軍での経験を評価されて、飛行第75戦隊の指揮官としてフィリピンで活躍した後、鉾田教導飛行師団の高級参謀として着任した土井勤中佐の次級参謀に抜擢されており、倉澤は土井と協力して、本土決戦のためのと号部隊の編成やその訓練、また飛行場整備などに尽力した。しかし、連合軍艦隊が日本本土に接近し、艦砲射撃なども行ってくる中で、本土決戦への戦力温存策で十分な反撃もできないまま、1945年8月15日の終戦を迎えた。土井や倉澤らの参謀たちは自決も考えたが、原田参謀長から堅く諫められて、10月15日まで軍職にあって終戦処理にあたった。振武寮で倉澤に罵倒されて再出撃を許可されなかった特攻隊員たちも、再出撃することもなく生存して終戦を迎えている。
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