本土時代とは? わかりやすく解説

本土時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 15:07 UTC 版)

船越義珍」の記事における「本土時代」の解説

大正11年1922年5月船越上京して文部省主催第一回体育展覧会東京女子高等師範学校附属教育博物館)において、唐手の型や組手写真二幅掛け軸まとめてパネル展示行った。翌6月には、講道館招かれて、嘉納治五郎柔道有段者前にして、船越東京商科大学(現・一橋大学)の学生儀間真謹の二人で唐手演武解説行った。このとき船越公相君儀間ナイファンチ演武した。下富坂(文京区)の道場に、二百人の館員集まって参観したと言われる船越は、そのまま東京留まり沖縄県出身者のための学生寮明正塾」に寄宿しながら、東京唐手指導をすることになった11月には、空手史上初となる『琉球拳法 唐手』を出版した講道館演武は型だけの単独演武だったこともあり、乱取り稽古重視する柔道家には、あまり強い印象与えることができなかったとされる唐手稽古が型のみという問題は、その後繰り返し柔道家側から満点として問題提起された。乱取り相当する稽古なければ本当実力計る物差し唐手にはないのではないかというのである船越初期弟子であった大塚博紀和道流開祖)や小西康裕神道自然流開祖)によると、船越当初15の型を持参して上京したが、組手はあまり知らなかったという。このため大正13年1924年)頃、大塚中心となり、他の弟子小西下田武らも協力しながら、大塚小西学んでいた神道揚心流竹内流柔術参考にして、組手作り上げられた。本土における約束組手誕生である。空手約束組手神道揚心流似ているのは、このためであると言う大塚はさらに自由組手唐手導入しよう提案したが、これには船越激しく反対し、そのため両者の関係次第難しくなったと言われている。 小西も、型を重視する船越釈然としない事で、のちに船越離れて本部朝基弟子入りもする。教育者スポーツ要素)である船越から、教育者対極の場で実戦経験をして重視する本部に就く事は、船越してみれば裏切りであり、「小西許せん!」と声を上げている。 大正13年1924年)、船越は「唐手研究会長・富名腰義珍」の名で、空手史上初めての段位発行した段位授与者は、粕谷真洋大塚博紀小西康裕儀間真謹らであった同年13年1924年10月慶應義塾大学唐手研究会発足、翌14年1925年10月には、東京帝国大学にも唐手研究会発足しそれぞれ船越初代唐手師範就任したまた、この年船越は二冊目の著書『錬膽護身 唐手術』を出版している。前著簡単なイラストによる型の挙動解説であったに対して、この書では、型の解説写真採用された。後に、船越は型の立ち幅などを改変するが、この書は改変以前船越の型を写真確認することができ、本土空手型の変遷を探る上で貴重な資料となっている。 自由組手試合実現問題は、船越頭痛の種であった昭和2年1927年)、東大唐手研究会防具唐手考案し唐手試合化を模索し始めると、船越はこれに抗議して昭和4年1929年12月東大師範辞任している。船越晩年までおおやけに空手試合認めことはなかったが、ただ船越師範をつとめる大学空手部の中には、すでに昭和10年頃から船越には内緒で自由組手行っていたようである。 同年船越師範務め慶應義塾大学唐手研究会機関誌において、般若心経「空」概念から、唐手空手改めると発表した空手表記は、花城長茂明治38年1905年)よりすでに使用していたが、東京空手表記改められたことにより、急速に空手表記広まっていった。当初沖縄空手界では反発もあったとされるが、昭和10年代になると、沖縄県でもこれに追随して空手表記広まった本土空手表記が広まる中、唐手表記固執すると、発祥の地である沖縄県地位危うくなる懸念されたためである。昭和6年1931年9月には、当時早稲田大学柔道部に籍を置いていた高等学院生野口宏が船越師範招き空手研究会創設した会長には教授大浜信泉就任しそのまま部長就任昭和8年早稲田大学空手となった昭和10年1936年)、船越は三冊目となる著書空手道教範』を出版した。この書では、日本の他の武道のように、新たに「道」の字を付けて、こうして唐手術は空手道という呼称改められた。 昭和14年1940年)、船越豊島区雑司ヶ谷念願の「松濤館道場建設し本郷区真砂町(現・文京区)の道場から移った。しかし、この松濤館昭和20年1945年)に戦災焼失したまた、同年船越後継者として自他共に認める三男・義豪が病のため死去した船越にとっては、苦悩の年であった

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本土時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 21:28 UTC 版)

本部朝基」の記事における「本土時代」の解説

大正10年1921年)頃、朝基は手がけた事業の失敗もあり、出稼ぎのため上阪することになる。大正11年1922年11月、たまたま遊びに出かけていた京都で、ボクシング柔道興行試合を目にして飛び入り参戦し相手外国人ボクサー一撃のもとに倒す。当時52歳であった。この試合模様が、日本出版史上、初め百万部を突破したといわれる国民的雑誌キング 大正14年9月号』(大日本雄辯會講談社)に掲載されると、本部朝基武名沖縄県発祥武術唐手存在は、一躍全国知られることになった大正12年1923年)には、兵庫県御影師範学校現・神大学)や御影警察署において、唐手試演行った。またこの頃大阪市唐手普及会を結成した。この会には、山田辰雄日本拳法空手道)らが入門している。大正15年1926年)には、空手史上初となる組手に関する著書沖繩拳法 唐手組手編』を出版した。この書で発表され12本の約束組手いわゆる朝基十二本組手は、現存する最古約束組手シリーズであり、空手組手文献これ以上遡ることはできない貴重なのである昭和2年1927年)、朝基上京して唐手指導に当たるようになった東京では、船越義珍門弟でもあった小西康裕(後に神道自然流を開く)が中心となり、本部朝基後援会結成された。朝基東洋大学唐手初代師範鉄道省唐手師範などを務めた昭和4年1929年)には、同じく船越門下大塚博紀(後に和道流を開く)が朝基のもとを訪れ師事している。大塚後年、「ともかく本部さんは文句なく強い人という印象です」と述懐した。また、この頃東京小石川原町(現・文京区白山)に空手道場大道館」を設立した。ここには長嶺将真松林流)も訪れて朝基師事している。 昭和7年1932年)、朝基は二冊目の著書『私の唐手術』を出版した。この書は、戦前部数刷られ戦後長らく行方不明であったが、近年発見され復刻された。朝基が得意としたナイファンチの全挙動写真その分解が掲載されており、近年ナイファンチ再評価つながった。 またこの頃東洋フェザー級チャンピオンだった不世出のボクサー・ピストン堀口大道館を訪れた朝基堀口に「遠慮無く掛かってきなさい」と言うとドテラ着たまま、堀口パンチをすべて捌いてみせ、入身して堀口眉間スレスレに拳を突いてみせた。堀口は「駄目だ、全然歯が立たない参りました」と一礼して構え解いた朝基はこの時六十歳過ぎていた。 朝基ナイファンチ重視したため、この型しか知らない揶揄されるほどであったが、実際には、ナイファンチの他にパッサイセイサンなども教えていた。また、糸洲安恒からピンアン原型に当たるチャンナン教わっている。他に朝基白熊という型を創作した白熊チャンナンとの説もある)。大塚によれば本部はどの型の用法分解質問して即座に答えることができたというので、実際には、一通りの型には精通していたと思われる

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