本土時代
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大正11年(1922年)5月、船越は上京して文部省主催の第一回体育展覧会(東京女子高等師範学校附属教育博物館)において、唐手の型や組手の写真を二幅の掛け軸にまとめてパネル展示を行った。翌6月には、講道館に招かれて、嘉納治五郎と柔道有段者を前にして、船越と東京商科大学(現・一橋大学)の学生・儀間真謹の二人で、唐手の演武と解説を行った。このとき船越は公相君、儀間はナイファンチを演武した。下富坂(文京区)の道場に、二百人の館員が集まって参観したと言われる。船越は、そのまま東京に留まり、沖縄県出身者のための学生寮「明正塾」に寄宿しながら、東京で唐手の指導をすることになった。11月には、空手史上初となる『琉球拳法 唐手』を出版した。 講道館の演武は型だけの単独演武だったこともあり、乱取り稽古を重視する柔道家には、あまり強い印象を与えることができなかったとされる。唐手の稽古が型のみという問題は、その後も繰り返し柔道家の側から不満点として問題提起された。乱取りに相当する稽古がなければ、本当の実力を計る物差しが唐手にはないのではないかというのである。船越の初期の弟子であった大塚博紀(和道流開祖)や小西康裕(神道自然流開祖)によると、船越は当初15の型を持参して上京したが、組手はあまり知らなかったという。このため、大正13年(1924年)頃、大塚が中心となり、他の弟子の小西や下田武らも協力しながら、大塚や小西が学んでいた神道揚心流や竹内流柔術を参考にして、組手が作り上げられた。本土における約束組手の誕生である。空手の約束組手が神道揚心流に似ているのは、このためであると言う。大塚はさらに自由組手を唐手に導入しようと提案したが、これには船越が激しく反対し、そのため両者の関係は次第に難しくなったと言われている。 小西も、型を重視する船越に釈然としない事で、のちに船越を離れて本部朝基に弟子入りもする。教育者(スポーツ要素)である船越から、教育者と対極の場で実戦を経験をして重視する本部に就く事は、船越にしてみれば裏切りであり、「小西を許せん!」と声を上げている。 大正13年(1924年)、船越は「唐手研究会長・富名腰義珍」の名で、空手史上、初めての段位を発行した。段位授与者は、粕谷真洋、大塚博紀、小西康裕、儀間真謹らであった。同年13年(1924年)10月、慶應義塾大学に唐手研究会が発足、翌14年(1925年)10月には、東京帝国大学にも唐手研究会が発足し、それぞれ船越が初代唐手師範に就任した。また、この年、船越は二冊目の著書『錬膽護身 唐手術』を出版している。前著が簡単なイラストによる型の挙動解説であったのに対して、この書では、型の解説に写真が採用された。後に、船越は型の立ち幅などを改変するが、この書は改変以前の船越の型を写真で確認することができ、本土空手の型の変遷を探る上で、貴重な資料となっている。 自由組手や試合化実現の問題は、船越の頭痛の種であった。昭和2年(1927年)、東大の唐手研究会が防具唐手を考案し、唐手の試合化を模索し始めると、船越はこれに抗議して、昭和4年(1929年)12月、東大師範を辞任している。船越は晩年までおおやけに空手の試合を認めることはなかったが、ただ船越が師範をつとめる大学空手部の中には、すでに昭和10年頃から船越には内緒で自由組手を行っていたようである。 同年、船越が師範を務める慶應義塾大学唐手研究会が機関誌において、般若心経の「空」の概念から、唐手を空手に改めると発表した。空手の表記は、花城長茂が明治38年(1905年)よりすでに使用していたが、東京で空手表記に改められたことにより、急速に空手表記が広まっていった。当初、沖縄空手界では反発もあったとされるが、昭和10年代になると、沖縄県でもこれに追随して空手表記が広まった。本土で空手の表記が広まる中、唐手表記に固執すると、発祥の地である沖縄県の地位が危うくなると懸念されたためである。昭和6年(1931年)9月には、当時早稲田大学柔道部に籍を置いていた高等学院生野口宏が船越を師範に招き、空手研究会を創設した。会長には教授大浜信泉が就任し、そのまま部長に就任、昭和8年早稲田大学空手部となった。昭和10年(1936年)、船越は三冊目となる著書『空手道教範』を出版した。この書では、日本の他の武道のように、新たに「道」の字を付けて、こうして唐手術は空手道という呼称に改められた。 昭和14年(1940年)、船越は豊島区雑司ヶ谷に念願の「松濤館」道場を建設し、本郷区真砂町(現・文京区)の道場から移った。しかし、この松濤館は昭和20年(1945年)に戦災で焼失した。また、同年、船越の後継者として自他共に認める三男・義豪が病のため死去した。船越にとっては、苦悩の年であった。
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本土時代
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大正10年(1921年)頃、朝基は手がけた事業の失敗もあり、出稼ぎのため上阪することになる。大正11年(1922年)11月、たまたま遊びに出かけていた京都で、ボクシング対柔道の興行試合を目にして飛び入りで参戦し、相手の外国人ボクサーを一撃のもとに倒す。当時52歳であった。この試合の模様が、日本出版史上、初めて百万部を突破したといわれる国民的雑誌『キング 大正14年9月号』(大日本雄辯會講談社)に掲載されると、本部朝基の武名と沖縄県発祥の武術・唐手の存在は、一躍全国に知られることになった。 大正12年(1923年)には、兵庫県の御影師範学校(現・神戸大学)や御影警察署において、唐手試演を行った。またこの頃、大阪市に唐手術普及会を結成した。この会には、山田辰雄(日本拳法空手道)らが入門している。大正15年(1926年)には、空手史上初となる組手に関する著書『沖繩拳法 唐手術 組手編』を出版した。この書で発表された12本の約束組手、いわゆる朝基十二本組手は、現存する最古の約束組手のシリーズであり、空手の組手は文献上これ以上遡ることはできない、貴重なものである。 昭和2年(1927年)、朝基は上京して唐手の指導に当たるようになった。東京では、船越義珍の門弟でもあった小西康裕(後に神道自然流を開く)が中心となり、本部朝基後援会が結成された。朝基は東洋大学の唐手部初代師範や鉄道省の唐手師範などを務めた。昭和4年(1929年)には、同じく船越門下の大塚博紀(後に和道流を開く)が朝基のもとを訪れ、師事している。大塚は後年、「ともかく本部さんは文句なく強い人という印象です」と述懐した。また、この頃、東京小石川原町(現・文京区白山)に空手道場「大道館」を設立した。ここには長嶺将真(松林流)も訪れて、朝基に師事している。 昭和7年(1932年)、朝基は二冊目の著書『私の唐手術』を出版した。この書は、戦前少部数刷られ、戦後長らく行方不明であったが、近年発見されて復刻された。朝基が得意としたナイファンチの全挙動写真とその分解が掲載されており、近年のナイファンチ再評価につながった。 またこの頃、東洋フェザー級チャンピオンだった不世出のボクサー・ピストン堀口が大道館を訪れた。朝基は堀口に「遠慮無く掛かってきなさい」と言うと、ドテラを着たまま、堀口のパンチをすべて捌いてみせ、入身して堀口の眉間スレスレに拳を突いてみせた。堀口は「駄目だ、全然歯が立たない、参りました」と一礼して、構えを解いた。朝基はこの時六十歳を過ぎていた。 朝基はナイファンチを重視したため、この型しか知らないと揶揄されるほどであったが、実際には、ナイファンチの他にパッサイやセイサンなども教えていた。また、糸洲安恒からピンアンの原型に当たるチャンナンを教わっている。他に朝基は白熊という型を創作した(白熊がチャンナンとの説もある)。大塚によれば、本部はどの型の用法や分解を質問しても即座に答えることができたというので、実際には、一通りの型には精通していたと思われる。
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