終戦処理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 14:37 UTC 版)
1945年(昭和20年)8月、日本政府による連合軍のポツダム宣言受諾後、岡村寧次支那派遣軍司令官の指示を受け、8月21日に終戦予備交渉のため、中国側が指定した湖南省の芷江(しこう)の地に赴き、中国軍の何応欽総司令たちと支那派遣軍の停戦交渉を行った。9月9日南京で行われた支那派遣軍の受降式直後、「今井は戦犯でない」と何応欽上将から明言された今井は、約1年半南京に残留し、総連絡班長として、日本軍将兵の復員や中国側から戦犯指定を受けた者の援護活動に従事し、日中戦争の後始末を行った。 中国との終戦処理は、蔣介石の「徳を以って怨みに報いる」方針に支えられ、それまで今井が中国との交渉過程で培った人間関係もあって、かなり順調に推移した。200万人とも言われる将兵の大陸からの引き揚げは、ソ連に侵攻された満州と異なり、比較的スムーズに行われた。勳二等瑞宝章受章。
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