終戦までの事業拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 06:51 UTC 版)
「日窒コンツェルン」の記事における「終戦までの事業拡大」の解説
更なる事業の拡大のため、豊富な水源を有する鴨緑江本流の電源開発に取り掛かり、満州国政府、朝鮮総督府との共通事業として、七つのダムによる165万kWの発電計画を策定した。1937年8月には水豊発電所の建設に着手したが、堰堤900m、高さ106m、貯水湖の広さ345km2と、霞ヶ浦の2倍、人造湖としては当時世界第2位の規模であった。水豊発電所の70万kW設備は1944年には殆ど完成していたが、第2期70万kWの設備は工事半ばにして敗戦を迎えた。 鴨緑江の電源開発と平行して、朝鮮の灰岩工場で石炭直接液化によるガソリン・エタノール、興南地区の竜興工場で航空機燃料のイソオクタン、水豊ダム下流の青水工場でカーバイド、アセチレンブラック、南山工場で合成ゴム、吉林では人造石油の製造にも取り組みが続いた。これらの他にも、中国の華北、台湾、海南島、スマトラ、ジャワ、マレー半島、シンガポールなどでも製造・電源開発・鉱石採掘などの事業を試みたが、いずれも1945年の敗戦により事業半ばに終わった。主要拠点である朝鮮の資産など、全財産の8割を喪失し、GHQの財閥解体令を待たずに日窒コンツェルンは実質的に瓦解した。
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