終戦の混乱と7期生のシベリア抑留
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「満洲国陸軍軍官学校」の記事における「終戦の混乱と7期生のシベリア抑留」の解説
1945年(康徳12年)6月、予科卒業が近い6期生は戦況悪化に伴い内地進学が中止となる事を危惧しており、その数名が中隊長や区隊長に無断で関東軍司令部に直訴、これが通り、したがって終戦時生徒は7期生のみが満洲に残っていた。 ソ連侵攻後の8月10日には軍官学校は関東軍の指揮下に入り、新京防衛戦に動員されることとなり、8月13日には軍官学校生徒隊が新京郊外にて防衛の任に着いた。しかし、この段階ですでに満系将兵や生徒の離反が始まっており、8月14日の深夜には満系将兵と生徒の一部が軍官学校輸送隊用の自動車20台を動かして脱出した。 その後、8月15日の終戦直後に満系生徒が一斉に離反、青天白日旗を掲げて中国軍へと合流を表明する事態に至り、日系生徒との間で一瞬即発の事態となったが、日系と満系の教官同士の話し合いにより日系教官と生徒が校舎を退去することで決着した。 ポツダム宣言受諾直後、ソ連侵攻の情報が流れる中で建国大学幹部が中心となり独自に朝鮮との国境付近に拠点を作る動きがあり、軍官学校の教官や生徒にも部隊を離脱し参加するよう呼びかけがあった。しかし生徒参加は軍官学校幹部が頑として応じず、結局参加したのは教官ら3人だけであり、しかも豪雨で阻まれ参加は頓挫した。その後、新京に進駐した赤軍(ソビエト連邦軍)によって軍官学校の生徒や教官は捕虜となり、シベリア抑留で7期生の中でも95名が死亡したとされる。
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