終戦の混乱と7期生のシベリア抑留とは? わかりやすく解説

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終戦の混乱と7期生のシベリア抑留

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:50 UTC 版)

満洲国陸軍軍官学校」の記事における「終戦の混乱と7期生のシベリア抑留」の解説

1945年康徳12年6月予科卒業が近い6期生戦況悪化に伴い内地進学中止となる事を危惧しており、その数名中隊長区隊長に無断関東軍司令部直訴、これが通り、したがって終戦時生徒7期生のみが満洲残っていた。 ソ連侵攻後の8月10日には軍官学校関東軍指揮下に入り新京防衛戦動員されることとなり、8月13日には軍官学校生徒隊が新京郊外にて防衛の任に着いた。しかし、この段階ですでに満系将兵生徒離反始まっており、8月14日深夜には満系将兵生徒一部軍官学校輸送隊用の自動車20台を動かして脱出したその後8月15日終戦直後に満系生徒一斉に離反青天白日旗掲げて中国軍へと合流表明する事態至り日系生徒との間で一瞬即発事態となったが、日系と満系の教官同士話し合いにより日系教官生徒校舎退去することで決着したポツダム宣言受諾直後ソ連侵攻情報流れる中で建国大学幹部中心となり独自に朝鮮との国境付近に拠点作る動きがあり、軍官学校教官生徒にも部隊離脱し参加するよう呼びかけがあった。しかし生徒参加軍官学校幹部頑として応じず、結局参加したのは教官ら3人だけであり、しかも豪雨阻まれ参加頓挫したその後新京進駐した赤軍ソビエト連邦軍)によって軍官学校生徒教官捕虜となり、シベリア抑留7期生中でも95名が死亡したとされる

※この「終戦の混乱と7期生のシベリア抑留」の解説は、「満洲国陸軍軍官学校」の解説の一部です。
「終戦の混乱と7期生のシベリア抑留」を含む「満洲国陸軍軍官学校」の記事については、「満洲国陸軍軍官学校」の概要を参照ください。

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