終戦への迷走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 00:44 UTC 版)
「終戦工作」も参照 日本においても、政府内外で和平派による活動が活発となっていた。近衛上奏文による終戦策を進めていた外交官吉田茂(元駐英大使)憲兵隊に拘束されるということもあった。しかし、まだ政府内で終戦に関する議論は進んでおらず、東西から激しく攻め込まれているナチス・ドイツの命運を固唾を呑んで見守っている状況であった。しかし、ベルリンにソ連赤軍が突入してベルリンの戦いが始まり、5月8日にナチス・ドイツが連合国に降伏し、イタリア社会共和国も消滅したことで、ついに日本は一国でイギリス、アメリカ、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国と対峙することになった(「欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)」参照)。この状況に至っても、陸軍を中心とする徹底抗戦派は、「神洲不敗」をスローガンに本土決戦を掲げて一億玉砕を唱えた。1945年(昭和20年)4月に、戦争終結を胸に秘めて総理大臣に就任した枢密院議長の鈴木貫太郎(元侍従長、元海軍軍令部長)も徹底抗戦派の強硬な姿勢に即時講和を主張することはできず、連合軍に決戦を挑み大損害を与えて有利な条件で連合軍と講和するという「一撃講和」に期待をかけており、それは昭和天皇も同様であった。 しかし、沖縄戦の命運が決すると、決戦地を沖縄と考えていた昭和天皇と鈴木は「一撃講和」すら困難なことを思い知らされ、表向きはドイツ降伏直後の5月9日に「帝國と盟を一にせる独逸の降伏は帝國の衷心より遺憾とするところなり、帝國の戦争目的はもとよりその自存と自衛とに存す、是れ帝國の不動の信念にして歐州戦局の急変は帝國の戦争目的に寸毫の変化を与えるものに非ず、帝國は東亜の盟邦と共に東亜を自己の慾意と暴力との下に蹂躙せんとする米英の非望に対しあくまでも之を破摧しもつて東亜の安定を確保せんことを期す」とする戦争遂行の政府声明を出したものの、裏では昭和天皇が内大臣木戸幸一に、「鈴木は講和の条件などについては弱い。木戸はどう考えるか。軍の武装解除については、何とか3,000人とか5,000人の軍隊を残せるよう話ができないものだろうか」と講和を進めるよう打診している。昭和天皇は6月9日に、中国大陸の視察から帰ってきた参謀総長梅津美治郎から、「在満州と在中国の戦力は、アメリカ陸軍師団に換算して4個師団程度の戦力しかなく、弾薬も近代戦であれば1会戦分ぐらいしかない」という報告を受け「日本内地の部隊は在満部隊より遙かに戦力が劣ると効いているのに、在満部隊がその程度の戦力であれば、統帥部のいう本土決戦など成らぬではないか」と認識、さらに6月12日には海軍の軍事参議官長谷川清大将から「海軍は兵器も人員も底をついている」「動員計画も行き当たりばったりの杜撰なもの」という報告も受けて、今までの事実認識が大きく崩れて、「本土決戦の戦勝による有利な講和」は幻影に過ぎないことを認識させられており、そのことを知っていた木戸は、天皇の親書を携えた特使をソ連に送り、対アメリカ、イギリスとの仲介を依頼するという講和案を考えて、昭和天皇に言上した。 昭和天皇の意向には陸海軍とも反対はできずに、本土決戦準備と並行してひそかにソ連を仲介役とした終戦工作が進められることとなった。外務省はソ連の駐日大使ヤコフ・マリクが疎開していた箱根の強羅ホテルに、広田弘毅元首相を交渉に向かわせた。しかし、交渉の進展がなかったため、鈴木は天皇の親書を携えた特使をモスクワに派遣することに決めた。特使の代表には元首相近衛文麿が選ばれて、外務省はソ連大使の佐藤尚武に近衛訪問の許可を得るように命じたが、既にソ連は1945年2月のヤルタ会談で極東の権益獲得を条件に対日参戦を決めており(極東密約もしくはヤルタの密約)、何ら成果は上がらなかった。この日本側の打診がソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリンに報告されたのが、スターリンがポツダム会談のためベルリン郊外のポツダムに向かった後であり、ソ連側は時間稼ぎのため引き延ばした上で、7月18日にはぐらかした回答をしているが、日本側がこの事情を知るよしもなく貴重な時間を浪費することとなった。
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