一撃講和
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会議後の5月18日、阿南は前線の士気を鼓舞するため九州まで飛び、天号作戦遂行中の前線基地である鹿屋基地と知覧基地を視察した。鹿屋では海軍第五航空艦隊司令の宇垣纏中将が出迎えたが、ビアク島の戦いの際に渾作戦を独断で中止し、阿南に煮え湯を呑ませたのが当時の第一戦隊司令官の宇垣であった。しかし、阿南が陸軍次官をしていたとき、軍令部第1部長であった宇垣とはよく会食するなど懇意にしており、この日も阿南はかつての私怨を持ち込むことはなく、海軍大臣の米内が一度も視察にこないのに陸軍大臣がわざわざ来てくれたと喜んで大歓迎した海軍側の厚意にこたえて、阿南は海軍の特攻隊員を激励し、夜には水交社で宇垣らと会食している。 翌5月19日に第6航空軍司令部のある福岡に飛び、司令官の菅原道大中将と面談。菅原は空挺特攻隊である「義烈空挺隊」の使用を再三再四、参謀本部に陳情してきたが、そのたびに拒否されてきたので、参謀本部を飛び越えて阿南に直談判しようと待ち構えていたが、阿南と面談する直前に参謀本部から「義号作戦認可せらる」との作戦許可の電文が届いている。阿南が東京に帰京したのちの5月24日、「義烈空挺隊」による沖縄の連合軍基地への空挺特攻作戦「義号作戦」が行われ、沖縄の連合軍飛行場に相当の打撃を与えた。 5月24日と5月25日の2日に渡って、合計1,000機以上にもなるB-29による東京への最大級の空襲が行われた。日本軍は前回の3月10日の東京大空襲の反省もあって、住民の避難と激しい迎撃を行い、死傷者は大きく減少、B-29を2日で43機撃墜し169機撃破したが、東京の市街地はほぼ灰燼に帰した。5月25日には、今までアメリカ軍が意図的に攻撃を控えてきた皇居の半蔵門に焼夷弾を誤爆してしまい、門と衛兵舎を破壊した。焼夷弾による火災は明治宮殿表宮殿から奥宮殿に延焼し、消防隊だけでは消火困難であったので、近衛師団も消火にあたったが火の勢いは弱まらず、皇居内の建物の28,520㎡のうち18,239㎡を焼失して4時間後にようやく鎮火した。御文庫附属庫に避難していた昭和天皇と香淳皇后は無事であったが、宮内省の職員ら34名と近衛師団の兵士21名が死亡した。首相官邸も焼失し、鈴木は防空壕に避難したが、防空壕から皇居が炎上しているのを確認すると、防空壕の屋根に登って、涙をぬぐいながら炎上する皇居を拝している。また、陸軍大臣官邸も焼失したが、阿南は燃える官邸を背にして炎上する宮城に向かって最敬礼を続けていたという。5月28日に阿南は皇居炎上の責任をとるため鈴木に辞表を提出した。鈴木は懸命に慰留したが、阿南の意志は固かったのでやむなく辞表をもって参内したが、昭和天皇より「陸軍大臣の微衷はわかるが、今や国家存亡のときである。現職に留まって補弼の誠を尽くすよう伝えよ」との慰留があったので、阿南はやむなく辞表を撤回した。 この頃になると同じ軍部でも、陸軍の阿南と海軍の米内の方針の相違が如実になってきた。軍部まで二つに割れてはいよいよどん詰りになると懸念した情報局総裁の下村は、鈴木と介添役となって、5月31日に首相官邸にて阿南と米内を中心とした6相懇談会を開催した。案の定、会議は阿南と米内の激しい論争となり、阿南が「敵を本土に引きつけて一撃を加えた後に有利な条件で講和すべき」という一撃講和論を主張したのに対して、米内は「その1戦の勝算の見込みなく、全面降伏は必然であり、一日も速やかに講和に入るべき」とする即時講和論を互いに主張して譲らなかった。阿南はさらに「このままで講和を求めれば大幅譲歩を必要とするため、国民を納得させられないばかりではなく、陸軍の中堅層を制御するのも不可能であり、何としてもここでもうひと踏ん張りは必要である」と主張すると、米内は「もう踏ん張りはきかない、やがては国体護持さえできない結果となる」と反論するなど、3時間余りの議論が行われたが、全く両者に歩み寄る気配はなかった。この互いの主張は大きく変わることがなく、この後も激しい議論が繰り返されることとなった。 6月9日、鈴木による帝国議会衆議院及び貴族院両院の本会議での演説の内容に対して、2日後の衆議院戦時緊急措置法案(政府提出)委員会で小山亮からなされた質問と鈴木の答弁(天罰発言事件)により、一部議員による倒閣運動が激化した。これにより、米内は言葉狩りに明け暮れる議会に呆れて、それに対する捨て鉢な鈴木の態度にも立腹し辞意を固めた。ここで、米内が辞職すれば閣内不一致で総辞職しなければならなくなるため、ほかの閣僚たちは青ざめたが、連日米内と激しい議論を繰り返してきた阿南が最も熱意を持って慰留に動き、辞意を思いとどまらせるため、自ら手紙をしたためた。米内は阿南の手紙を読むと「陸相がこうまでいってくれるのか」嬉しそうにつぶやくと、米内から見れば箍が緩んでいるように見える鈴木が、ネジを巻き直すことを条件に辞意を撤回した。ここで阿南が米内を説得しなければ辞職はほぼ確実で、阿南に反対する有力な閣僚はいなくなるため、なぜ阿南が米内を説得したかの真意は不明であるが、後日阿南は「どう考えても国を救うのはこの鈴木内閣だと思う」という発言もしており、鈴木内閣を最後まで支えようと決心していたものと推測される。 天罰発言事件で国会や内閣が揺れていた頃、昭和天皇は日頃の心労と激務で体調を崩していた。6月8日の御前会議で決定した「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」は、本土決戦で敵に大出血を強いて継戦意志を動揺させて、戦争目的である国体護持をはかるというもので「飽ク迄戦争ヲ完遂」するとの陸軍側の強い主張が反映されていた。しかしその拠り所は「七生尽忠ノ信念」や「地ノ利人ノ和」などという抽象的なものであり、これを見た昭和天皇は会議終了後に、「こういうことが決まったよ」と木戸幸一内大臣に御前会議での決定内容を示している。これは異例なことであり、木戸は昭和天皇が「えらい強いのが出てきたよ」「困ったことになった」と言っていると受け取った。昭和天皇は17貫目あった体重が15貫目を割り込む(約8kgの減)など、傍目からもやつれている様子は明らかで、木戸は昭和天皇の様子を見て、時局収拾の試案作成に着手した。その試案によれば、天皇の親書を携えた特使をソ連に送り、対アメリカ、イギリスとの仲介を依頼するというもので、木戸は出来上がった試案を昭和天皇に言上すると、昭和天皇は政務室のソファーでタイプされた木戸試案を熱心に読んだのち、とくに質問することもなく「ひとつ、やってみろ」と許可した。 昭和天皇は翌6月9日に、中国大陸の視察から帰ってきた参謀総長梅津から、「在満州と在中国の戦力は、アメリカ陸軍師団に換算して4個師団程度の戦力しかなく、弾薬も近代戦であれば1会戦分ぐらいしかない」という報告を受けた。この報告で昭和天皇は「日本内地の部隊は在満部隊より遙かに戦力が劣ると聞いているのに、在満部隊がその程度の戦力であれば、統帥部のいう本土決戦など成らぬではないか」と認識、さらに6月12日には海軍の軍事参議官長谷川清大将から「海軍は兵器も人員も底をついている」「動員計画も行き当たりばったりの杜撰なもの」「機動力は空襲のたびに悪化減退し、戦争遂行能力は日に日に失われている」という報告も受けて、今までの事実認識が大きく崩れて、「本土決戦の戦勝による有利な講和」は幻影に過ぎないことを認識させられている。昭和天皇はこれで心身が打ちのめされて、この日と翌15日は体調不良で寝込んでしまった。 昭和天皇が体調を崩している間も、木戸は精力的に動いて、6月13日にこの試案を米内に説明した。米内は高木惣吉少将を用いて海軍独自で終戦に向けての工作をしていたが、木戸試案を聞くとそのことには触れず「首相がまだ強気だから」と鈴木の強硬姿勢を危惧しながらも木戸の試案に賛同した。木戸は次に鈴木と面談し木戸試案を説明したが、鈴木は8月には日本陸海軍の戦力ががた落ちすると考えており、木戸は「それならば皇室のご安泰、国体護持のため、戦争終結に進みましょう」と賛同を求め、鈴木も「当然、私もその覚悟です。それ以外にない」と賛同した。鈴木は米内の方が強硬な態度と思い込んでおり、木戸から米内が木戸試案に賛同したと聞かされると「実は自分は米内の方がまだなかなか強いと思ってましたが、そうですか」と苦笑している。6月15日には沖縄戦の大勢も決しており、阿南は鈴木らと一緒に必勝祈願のため伊勢神宮を参拝している。鈴木はこの日の記者会見で「本土決戦こそ絶好の勝機」「沖縄が天王山などとは考えていない。元寇のときの壱岐・対馬をとられたのと同じことで、これから本土で、九州で戦う」という発言を行って、あくまでも表面上は、沖縄陥落後の本土決戦への意気込みを披露するなど、木戸との講和に向けての深謀を周囲に気取られないようにしている。 木戸は伊勢神宮から帰ってきた阿南と6月18日に面談して自分の試案を説明した。阿南は木戸が辞任を考えていると聞いており、開口一番に「辞めたらいけない」と慰留してきたので、木戸はそのときすかさず「いや、わたしがいおうとしていることを聞いたら、あんたはわたしに内大臣を辞めろと言うかも知れない」と前置きしてから、「阿南君、あんたいったい戦争をどう思ってる。もう本当にいかんのではないか」「我々はいまこそ戦局の収拾について、果断な手を打つ必要がある」とタイプされた木戸試案を見せながら説いた。暫く黙って聞いていた阿南は顔をほころばせながら「木戸さん、あなたの今の地位からいって、今言われたことを考えるのは至極当然だと思うのです」「しかし我々軍人は本土決戦において敵に一大打撃を与えてから和平を交渉すべきだ、と考えているだけなのです。その方が日本にとって有利な条件で和平が結べると信じるのです」と答えている。木戸がさらに「本土決戦は結局は一億国民玉砕しか道がなく、そうすれば国体の護持どころではない」「お上は、戦争を終末まで続けるのは無駄なことだと考えられ、憂慮している」と昭和天皇の想いを説くと、天皇に忠誠な阿南は言葉を失った。最後に木戸は「いっぺんたたいても、アメリカは2回、3回と来るだけの力を持っている」「その前にやらねばいけないから、とにかく考えてくれ」と木戸試案の検討を促すと、阿南も「それはわかっている。なんとか考えよう」と同意した。 6月22日、最高戦争指導会議構成員6名による御前会議が開催され、昭和天皇は会議の冒頭に「戦争の終結についても、この際従来の観念にとらわれることなく、速に具体的研究をとげ、これを実現するよう努力せよ」と公式には初めて和平の意志を示した。会議ではこの後も昭和天皇が積極的に発言し、梅津が「和平の提唱は内外に及ぼす影響が大きいから、充分に事態を見定めたうえに慎重に措置する必要がある」と意見を述べたのに対して、昭和天皇が「慎重に措置するというのは敵に対しさらに一撃加えた後にというのではあるまいね」と皮肉を込めて尋ねると、梅津は「そういう意味ではありません」と答え、阿南は「とくに申し上げることはありません」と言ったきり黙ってしまった。この会議で、陸軍による「一撃講和論」は昭和天皇によって封じ込められた形となった。天皇が席を立つと、鈴木が「我々が口に出すことをはばからなければいけないようなことを、陛下が素直におっしゃって下さった」「今後は、この6人が集まって十分にその方策をなることにいたしたい」と出席者に同意を求めた。真っ先に阿南が「賛成です」と同意したが、「しかし、これは極秘にしなければなりません。陸軍の若いものは自分たちの考えのみが正しいと思い込んでおります。陛下が終戦の決意を選ばされるのは、側近たちにだまされておるため、としか考えませんから」と率直に現在の陸軍の状況について吐露した。このあと、阿南は昭和天皇の和平への強い意志と、陸軍による徹底抗戦の突き上げのなかで難しいかじ取りを迫られることとなった。 昭和天皇の意を受けて、外務省はソ連の駐日大使ヤコフ・マリクが疎開していた箱根の強羅ホテルに、広田弘毅元首相を交渉に向かわせた。しかし、交渉の進展がなかったため、鈴木は天皇の親書を携えた特使をモスクワに派遣することに決めた。特使の代表には元首相近衛文麿が選ばれて、外務省はソ連大使の佐藤に近衛訪問の許可を得るように命じたが、既に厳しいソ連との交渉を行ってきて、成果らしい成果を挙げることが出来ていなかった佐藤は、ソ連との外交交渉は「降伏による終戦以外にとる道なし」との進言を打電しており、今回も無理を確信しながらソ連側に打診している。この日本側の打診がソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリンに報告されたのが、スターリンがポツダム会談のためベルリン郊外のポツダムに向かった後であり、ソ連側は時間稼ぎのため引き延ばした上で、7月18日にはぐらかした回答をしているが、日本側がこの事情を知るよしもなかった。
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