一撃講和とは? わかりやすく解説

一撃講和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 08:24 UTC 版)

阿南惟幾」の記事における「一撃講和」の解説

会議後5月18日阿南前線士気を鼓舞するため九州まで飛び天号作戦遂行中の前線基地である鹿基地知覧基地視察した鹿屋では海軍第五航空艦隊司令宇垣纏中将出迎えたが、ビアク島の戦いの際に渾作戦独断中止し阿南煮え湯を呑ませたのが当時第一戦隊司令官宇垣であった。しかし、阿南陸軍次官をしていたとき、軍令部第1部であった宇垣とはよく会食するなど懇意にしており、この日も阿南はかつての私怨持ち込むことはなく、海軍大臣米内一度視察にこないのに陸軍大臣がわざわざ来てくれたと喜んで大歓迎した海軍側の厚意こたえて阿南海軍特攻隊員激励し夜に水交社宇垣らと会食している。 翌5月19日に第6航空軍司令部のある福岡飛び司令官菅原道大中将面談菅原空挺特攻隊である「義烈空挺隊」の使用再三再四参謀本部陳情してきたが、そのたび拒否されてきたので、参謀本部飛び越えて阿南直談判しようと待ち構えていたが、阿南面談する直前参謀本部から「義号作戦認可せらる」との作戦許可電文届いている。阿南東京帰京したのちの5月24日、「義烈空挺隊」による沖縄連合軍基地への空挺特攻作戦義号作戦が行われ、沖縄連合軍飛行場に相当の打撃与えた5月24日5月25日2日渡って合計1,000以上にもなるB-29による東京へ最大級空襲が行われた。日本軍前回3月10日東京大空襲反省もあって、住民避難激し迎撃行い死傷者大きく減少B-292日43撃墜し169撃破したが、東京市街地はほぼ灰燼に帰した5月25日には、今までアメリカ軍意図的に攻撃控えてきた皇居半蔵門焼夷弾誤爆してしまい、門と衛兵舎を破壊した焼夷弾による火災明治宮殿宮殿から奥宮殿延焼し消防隊だけでは消火困難であったので、近衛師団消火あたったが火の勢いは弱まらず、皇居内の建物28,520㎡のうち18,239㎡を焼失して4時間後にようやく鎮火した御文庫附属庫避難していた昭和天皇香淳皇后は無事であったが、宮内省職員34名と近衛師団兵士21名が死亡した首相官邸焼失し鈴木防空壕避難したが、防空壕から皇居炎上しているのを確認すると、防空壕屋根に登って、涙をぬぐいながら炎上する皇居拝している。また、陸軍大臣官邸焼失したが、阿南燃え官邸を背にして炎上する宮城向かって最敬礼続けていたという。5月28日阿南皇居炎上責任をとるため鈴木辞表提出した鈴木懸命に慰留したが、阿南意志は固かったのでやむなく辞表をもって参内したが、昭和天皇より「陸軍大臣微衷はわかるが、今や国家存亡のときである。現職に留まって補弼の誠を尽くすよう伝えよ」との慰留があったので、阿南やむなく辞表撤回したこの頃になると同じ軍部でも、陸軍阿南海軍米内方針相違如実になってきた。軍部まで二つ割れてはいよいよどん詰りになると懸念した情報局総裁下村は、鈴木介添役となって、5月31日首相官邸にて阿南米内中心とした6相懇談会開催した案の定会議阿南米内激し論争となり、阿南が「敵を本土引きつけ一撃加えた後に有利な条件講和すべき」という一撃講和論を主張したに対して米内は「その1戦の勝算見込みなく、全面降伏必然であり、一日速やかに講和に入るべき」とする即時講和論を互いに主張して譲らなかった。阿南はさらに「このまま講和求めれば大幅譲歩を必要とするため、国民納得させられないばかりではなく陸軍中堅層を制御するのも不可能であり、何としてもここでもうひと踏ん張りは必要である」と主張すると、米内は「もう踏ん張りきかない、やがては国体護持さえできない結果となる」と反論するなど、3時余り議論が行われたが、全く両者歩み寄る気配はなかった。この互い主張大きく変わることがなく、この後激し議論繰り返されることとなった6月9日鈴木による帝国議会衆議院及び貴族院両院本会議での演説内容に対して2日後衆議院戦時緊急措置法案(政府提出委員会小山亮からなされた質問鈴木答弁天罰発言事件)により、一部議員による倒閣運動激化した。これにより、米内言葉狩り明け暮れる議会呆れて、それに対す捨て鉢鈴木態度にも立腹し辞意固めた。ここで、米内辞職すれば閣内不一致総辞職しなければならなくなるため、ほかの閣僚たちは青ざめたが、連日米内激し議論繰り返してきた阿南が最も熱意持って慰留動き辞意思いとどまらせるため、自ら手紙したためた米内阿南の手紙を読むと「陸相がこうまでいってくれるのか」嬉しそうにつぶやくと、米内から見れば箍が緩んでいるように見え鈴木が、ネジ巻き直すことを条件辞意撤回した。ここで阿南米内説得しなければ辞職はほぼ確実で、阿南反対する有力な閣僚はいなくなるため、なぜ阿南米内説得したかの真意不明であるが、後日阿南は「どう考えても国を救うのはこの鈴木内閣だと思う」という発言もしており、鈴木内閣最後まで支えようと決心していたもの推測される天罰発言事件国会内閣揺れていた頃、昭和天皇日頃心労激務体調崩していた。6月8日御前会議決定した今後採ルヘキ戦争指導基本大綱」は、本土決戦で敵に大出血を強いて継戦意志動揺させて、戦争目的である国体護持をはかるというもので「飽ク迄戦争完遂」するとの陸軍側の強い主張反映されていた。しかしその拠り所は「七生尽忠信念」や「地ノ利人ノ和」などという抽象的なものであり、これを見た昭和天皇会議終了後に、「こういうことが決まったよ」と木戸幸一内大臣御前会議での決定内容示している。これは異例なことであり、木戸昭和天皇が「えらい強いのが出てきたよ」「困ったことになったと言っていると受け取った昭和天皇17貫目あった体重15貫目割り込む(約8kgの減)など、傍目からもやつれている様子は明らかで、木戸昭和天皇様子見て時局収拾試案作成着手した。その試案によれば天皇親書携えた特使ソ連送り対アメリカイギリスとの仲介依頼するというもので、木戸出来上がった試案昭和天皇言上すると、昭和天皇政務室のソファータイプされ木戸試案熱心に読んだのち、とくに質問するともなく「ひとつ、やってみろ」と許可した昭和天皇は翌6月9日に、中国大陸視察から帰ってきた参謀総長梅津から、「在満州在中国の戦力は、アメリカ陸軍師団換算して4個師団程度戦力しかなく、弾薬近代戦であれば1会戦分ぐらいしかない」という報告受けた。この報告昭和天皇は「日本内地部隊は在満部隊より遙かに戦力が劣ると聞いているのに、在満部隊がその程度戦力であれば統帥部のいう本土決戦など成らぬではないか」と認識、さらに6月12日には海軍軍事参議官長谷川清大将から「海軍兵器人員も底をついている」「動員計画行き当たりばったりの杜撰なもの」「機動力空襲のたびに悪化減退し戦争遂行能力日に日に失われている」という報告受けて今まで事実認識大きく崩れて、「本土決戦戦勝による有利な講和」は幻影に過ぎないことを認識させられている。昭和天皇はこれで心身打ちのめされて、この日と翌15日体調不良寝込んでしまった。 昭和天皇体調崩している間も、木戸精力的に動いて6月13日にこの試案米内説明した米内高木惣吉少将用いて海軍独自で終戦向けて工作をしていたが、木戸試案聞くそのことには触れず首相がまだ強気だから」と鈴木強硬姿勢危惧しながらも木戸試案賛同した木戸次に鈴木面談し木戸試案説明したが、鈴木8月には日本陸海軍戦力がた落ちする考えており、木戸は「それならば皇室のご安泰国体護持のため、戦争終結進みましょう」と賛同求め鈴木も「当然、私もその覚悟です。それ以外にない」と賛同した鈴木米内の方が強硬な態度思い込んでおり、木戸から米内木戸試案賛同した聞かされると「実は自分米内の方がまだなかなか強いと思ってましたが、そうですか」と苦笑している。6月15日には沖縄戦大勢決しており、阿南鈴木らと一緒に必勝祈願のため伊勢神宮参拝している。鈴木はこの日の記者会見で「本土決戦こそ絶好勝機」「沖縄天王山などとは考えていない元寇のときの壱岐・対馬をとられたのと同じことで、これから本土で、九州で戦う」という発言行ってあくまでも表面上は、沖縄陥落後の本土決戦への意気込み披露するなど、木戸との講和向けて深謀周囲気取られないようにしている。 木戸伊勢神宮から帰ってきた阿南6月18日面談し自分試案説明した阿南木戸辞任考えていると聞いており、開口一番に「辞めたらいけない」と慰留してきたので、木戸そのときすかさず「いや、わたしがいおうとしていることを聞いたら、あんたはわたしに内大臣辞めと言うか知れない」と前置きしてから、「阿南君、あんたいったい戦争をどう思ってる。もう本当にいかんのではないか」「我々はいまこそ戦局収拾について、果断な手を打つ必要がある」とタイプされ木戸試案見せながら説いた暫く黙って聞いていた阿南は顔をほころばせながら「木戸さん、あなたの今の地位からいって、今言われたことを考えるのは至極当然だと思うのです」「しかし我々軍人本土決戦において敵に一大打撃与えてから和平交渉すべきだ、と考えているだけなのですその方日本にとって有利な条件和平結べると信じるのです」と答えている。木戸がさらに「本土決戦結局は一億国民玉砕しか道がなく、そうすれば国体護持どころではない」「お上は、戦争終末まで続けるのは無駄なことだと考えられ憂慮している」と昭和天皇想い説くと、天皇忠誠阿南言葉失った最後に木戸は「いっぺんたたいても、アメリカは2回、3回と来るだけの力を持っている」「その前にやらねばいけないから、とにかく考えてくれ」と木戸試案検討促すと、阿南も「それはわかっている。なんとか考えよう」と同意した6月22日最高戦争指導会議構成員6名による御前会議開催され昭和天皇会議冒頭に「戦争の終結についても、この際従来観念とらわれることなく、速に具体研究をとげ、これを実現するよう努力せよ」と公式には初め和平意志示した会議ではこの後昭和天皇積極的に発言し梅津が「和平の提唱内外に及ぼす影響大きいから、充分に事態見定めたうえに慎重に措置する必要がある」と意見述べたに対して昭和天皇が「慎重に措置するというのは敵に対しさらに一撃加えた後にというのではあるまいね」と皮肉を込めて尋ねると、梅津は「そういう意味ではありません」と答え阿南は「とくに申し上げることはありません」と言ったきり黙ってしまった。この会議で、陸軍による「一撃講和論」は昭和天皇によって封じ込められた形となった天皇席を立つと、鈴木が「我々が口に出すことをはばからなければいけないようなことを、陛下素直におっしゃって下さった」「今後は、この6人が集まって十分にその方策をなることにいたしたい」と出席者同意求めた真っ先阿南が「賛成です」と同意したが、「しかし、これは極秘にしなければなりません。陸軍の若いものは自分たちの考えのみが正しいと思い込んでおります陛下終戦決意を選ばされるのは、側近たちにだまされておるため、としか考えませんから」と率直に現在の陸軍状況について吐露した。このあと阿南昭和天皇和平への強い意志と、陸軍による徹底抗戦突き上げのなかで難しいかじ取り迫られることとなった昭和天皇意を受けて、外務省ソ連駐日大使ヤコフ・マリク疎開していた箱根強羅ホテルに、広田弘毅元首相交渉に向かわせた。しかし、交渉進展がなかったため、鈴木天皇親書携えた特使モスクワ派遣することに決めた特使の代表には元首相近衛文麿選ばれて、外務省ソ連大使佐藤近衛訪問許可を得るように命じたが、既に厳しソ連との交渉行ってきて、成果らしい成果を挙げることが出来ていなかった佐藤は、ソ連との外交交渉は「降伏による終戦以外にとる道なし」との進言打電しており、今回も無理を確信しながらソ連側打診している。この日本側の打診ソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリン報告されたのが、スターリンポツダム会談のためベルリン郊外ポツダム向かった後であり、ソ連側時間稼ぎのため引き延ばした上で7月18日はぐらかした回答をしているが、日本側がこの事情を知るよしもなかった。

※この「一撃講和」の解説は、「阿南惟幾」の解説の一部です。
「一撃講和」を含む「阿南惟幾」の記事については、「阿南惟幾」の概要を参照ください。

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