対上陸部隊
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日本軍は対上陸部隊への戦術としてタラワの戦いなど、上陸部隊の弱点である海上もしくは水際付近にいるときに戦力を集中して叩くという「水際配置・水際撃滅主義」を採用していた。タラワ島ではこの方針によってアメリカ軍海兵隊に大打撃を与えたが、サイパンの戦いにおいては、想定以上の激しい艦砲射撃に加え、日本軍の陣地構築が不十分であったことから、水際陣地の大部分が撃破され、その後の反撃も戦力の逐次投入という失敗を侵して、短期間のうちに大きな損害を被ることとなった。このサイパン島の敗戦は日本軍に大きな衝撃を与えて、のちの島嶼防衛の方針を大きく変更させた。その後に作成されたのが1944年8月19日に参謀総長名で示達された「島嶼守備要領」であり、この要領によって日本軍の対上陸防衛は、従来の「水際配置・水際撃滅主義」から、海岸線から後退した要地に堅固な陣地を構築し、上陸軍を引き込んでから叩くという「後退配備・沿岸撃滅主義」へと大きく変更されることとなった。 本土決戦についても、この方針は基本的に維持されて、1945年3月に示達された「対上陸作戦に関する統帥の参考書」や「国土築城実施要領」において、陣地を海岸線に構築するのではなく、後退した要地に可能な限り堅固に設置し、その陣地に籠る部隊が激しい抵抗で可能な限り上陸軍の橋頭保構築を妨害し、そこを機動力を持った部隊が攻撃をかけて上陸軍を殲滅するという「後退配備・沿岸撃滅主義」が採用された。その作戦方針に基づき第一次兵備で陣地で防衛戦を戦う沿岸配備師団(師団名100番台の師団)と第二次兵備で戦車師団や常備師団と反撃を行う機動打撃師団(師団名200番台の師団)が根こそぎ動員で編成された。 沿岸配備師団編成 歩兵連隊(守備任務)歩兵連隊(反撃任務)師団砲兵隊師団速射砲兵員3,850 3,207 重擲弾筒158 111 軽機関銃81 54 重機関銃54 24 短機関銃72 12 歩兵砲18 速射砲4 12 山砲 8 野砲 10 噴進砲 36 迫撃砲 12 ※歩兵連隊(守備任務)は3個連隊、歩兵連隊(反撃任務)と併せて1個師団を歩兵4個連隊で編成 機動打撃師団 歩兵連隊迫撃連隊砲兵連隊師団速射砲師団機関砲隊兵員4,368 重擲弾筒112 軽機関銃108 重機関銃48 短機関銃96 速射砲 12 山砲4 野砲 60 迫撃砲16 36 高射機関砲 9 ※歩兵連隊は3個連隊で編成 沿岸配備師団は装備が貧弱であり、また、これまでに二十代から三十代の健常な男子の多くは既に徴兵されており、動員されるのは四十代の老兵や、徴兵で何らかの身体的問題を抱えている者も多かったので、その戦闘力は常備師団と比較すると低く、水際で上陸軍の足止めをするという役割と相まって「はりつけ師団」や「かかし師団」などと呼ばれていた。同じ根こそぎ動員師団でも、常備師団や戦車師団と上陸軍への反撃を行う機動打撃師団は、沿岸配備師団と比較すると装備は充実していた。なりふり構わない戦力増強策で日本本土には54個の師団が展開することとなったが、大半はこの根こそぎ動員で編成された師団であり、既設の師団はこのうちの12個師団に過ぎなかった。 前述の通り、当時の日本軍は装備調達に苦慮していたため、根こそぎ動員で動員された師団の装備は不十分であった。例えば沿岸配備師団の静岡の第143師団は老兵と若年兵がほとんどで、兵器はおろか軍靴さえも行きわたらず、銃剣は全兵力の50%、火砲70%、小銃80%、通信機類30%、機銃30%強、弾薬糧食は半会戦分に過ぎなかった[要出典]。装備が可能な限り補充されるはずの第2次兵備の機動打撃師団(第214師団)でさえ連隊砲、大隊砲に欠け小銃は二人であった[要出典]。特に第三次兵備で編成された師団の装備が不足しており、第53軍の第316師団にように、1個小隊に重機関銃2丁に小銃15~16丁しか配備されないなど、小火器の充足率は約40%、重機関銃や迫撃砲の充足率は約50%、火砲も未充足というものであった。本土決戦の日本軍の装備で象徴的に語られるのは、この第3次兵備で編成された師団で、兵器の不足に対応するため、木製の突撃棒やなかには中世の弩を自作する兵士もいたが、これはあくまでも戦力不足の第3次兵備師団の話が中心で、本土決戦時点の日本軍の平均的な状況ではない。昭和天皇も東久邇盛厚王から「海岸の防備のみならず、決戦師団も武器が十分に補給されず、敵の落した爆弾の鉄を利用してシャベルを作る有様である」との報告を受けて「これでは戦争は不可能と云ふ事を確認した」と語っており、決戦師団の装備充足率も決して十分ではなかった。本土決戦前にあらゆる兵器を戦場に投入しようとするのは、第二次世界大戦で全世界的に見られた状況であり、ナチスドイツの上陸の危機が迫ったイギリスにおいても、チャーチル自らが考案したとされるホームガードパイクという鉄槍も戦場に投入される予定であった 戦力増強と並行して詳細な作戦の検討も進められた。ペリリューの戦いや硫黄島の戦いなどでは有効であった「後退配備・沿岸撃滅主義」方針が、レイテ島の戦いにおいてはアメリカ軍に容易く上陸を許してしまうなど、かえって作戦方針の変更が混乱をもたらした戦訓も報告された。また、作戦方針変更での成功例と言われる硫黄島の戦いの戦訓を分析したり、また沖縄戦から生還した第32軍作戦参謀森脇弘二中尉からの報告より、「水際陣地による水際撃滅主義は艦砲射撃により成立しない」とする分析は必ずしも正しくなく、徹底して陣地構築した硫黄島や沖縄では艦砲射撃による損害は、サイパン島に比較すると軽微であったことや、逆にペリリュー島や硫黄島では艦砲射撃を耐えた水際陣地が「砲兵火力をもって果敢な反撃を加え、敵に上陸初動に相当の打撃を与えた」という事実もあり、対策が不十分であったサイパンにおける戦訓を重視するあまり、「水際に於ける敵の必然的弱点」を見逃してしまうといった愚を避けて、上陸軍が最も弱いときに最大限の打撃を与えるとする、「水際撃滅」方式が復活することとなった。これは、サイパン島で失敗した水際撃滅と大きく異なり、常に数倍の大兵力を相手に戦わざる得ない孤島の防衛戦とは違って、本土決戦においては、敵に匹敵する大兵力をもって「連続不断の反撃」を行うことができるという利点もあった。方針変更を主導した大本営第1部長宮崎周一中将は「従来どんなに切望しても達成しえなかった「敵上陸直後の連続不断の反撃」が今度こそ成熟できる」と意気込んでいた。 この方針転換は上記の通りの戦訓の分析という理由のほかに、現実的な問題として、沖縄戦における反撃の失敗の様に、火力が圧倒的に劣る日本軍では上陸軍が戦力を整える内陸部での反撃の成功はおぼつかないということと、根こそぎ動員でかき集めた兵士に複雑な防御戦闘は困難であり、ひたすら上陸直後の敵に対して突撃するという単純明快な戦術の方がまだ成功の確率が高いというという判断もあったとされる。また、今までの上陸軍を足止めし大きな出血を強いて時間稼ぎをするといった島嶼防衛とはそもそも作戦目的が異なり、アメリカ軍に一大決戦を挑んで、局地的にも勝利して有利な条件の講和に持ち込むという「一撃講和」が作戦目的であって、守っているだけではその作戦目的を達成できないという日本側の事情もあった。 しかし、アメリカ軍侵攻直前の作戦方針の大転換は、防衛準備を進めていた日本軍に少なからず混乱をもたらせ、既に陣地構築を完成させつつあった九州方面の部隊は作戦変更を拒否し、従来の「後退配備・沿岸撃滅主義」で作戦準備を続けているなど、全軍の統一方針とはならなかった。参謀本部も本土決戦に備えて現地視察を頻繁に行ったが、その報告は概ね築城、物資、訓練、後方補給などいずれも不十分であるのみならず、決戦の気風にも欠けているというもので、参謀本部も実際には厳しい現状を認識していた。軍の報告を受けた昭和天皇も「従来勝利獲得の自信ありと聞くも、計画と実行が一致しないこと、防備並びに兵器の不足の現状に鑑みれば、機械力を誇る米英軍に対する勝利の見込みはないことを挙げられる」との認識を示した。
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