対ローマ戦とは? わかりやすく解説

対ローマ戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 04:07 UTC 版)

ナビス」の記事における「対ローマ戦」の解説

紀元前195年ローマ前執政官ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスアカイア人ペロポネソスでのナビスの力を抑えることを説かれナビスに対してアルゴスアカイア返すか、ローマ戦争するかのどちらかを選ぶよう迫ったナビスアルゴス返還拒絶しフラミニウスラコニア侵攻したナビス戦争)。結局スパルタ敗れ海へアクセス権スパルタ与えていたギュテイオン港の引渡し強いられた

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対ローマ戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/14 16:50 UTC 版)

ラルス・ポルセンナ」の記事における「対ローマ戦」の解説

ラルス・ポルセナは紀元前509年起こった革命により王政ローマ崩壊し、半伝説的なローマ最後の王ルキウス・タルクィニウス・スペルブス亡命してきた事から、ローマとの戦争突入した追放され王族は元々エトルリア出身で、ポルセナへ助け求めるまでにも幾度か王位奪還失敗していた。 ポルセナ王は援助確約し、クルシウムはエトルリアでも屈指の都市であると自信見せたこの後の展開には記録相違みられるリウィウスを含むローマ主流派による記録では、ポルセナ王はローマ攻囲したものの、ローマ人勇敢な行動目の当たりにして和平求めたとしている。 しかしながら、ポルセナは確かにローマ攻略し、後に追い出されたのだとする説もある。 ただしタルクィニウス傲慢王復位したとする記録はない。 したがって、もしポルセナが実際にローマ攻略していたとしても、自身支配するためであって前王朝を復興させる意図はなかったのであろう一説によると、ローマ包囲中、ローマ人若者ガイウス・ムキウス元老院許可得て、ポルセナを暗殺しよう一人エトルリア陣に忍び込んだ。 ムキウスは王のところまでたどり着けはしたものの、同じよう格好をしていた王と書記官の区別がつかず、書記官の方を殺してしまった。逃げようとした彼は程なく捕まってしまい、ポルセナの前に引き立てられると、ふてぶてしく彼の素性決意言い放った恐れるがいい王よ、私以外にも三百人の若者同じよう貴様の命を狙っているぞ。誰かが成功するまで諦めることなどないのだ。そう言うと彼はその言葉証明するかのように右手拷問の炎へと押し付けた。この行為により、彼と子孫たちはスカエウォラ (左手の)とあだ名された。 この若者勇気驚きかつ感銘受けたポルセナは、ムキウスの縛め解き、陣から帰したリウィウスによると、ポルセナはこの後直ち和平条約持ちかけたという。 ポルセナは和平条約ローマウェイイから奪っていた土地の返還求めヤニクルムの丘から兵を引く代わりに人質取っている。その人質の一人、クロエリアという若い女性は、ローマ人乙女たち引き連れ、ティベリス河を渡ってエトルリア陣から逃げ出した。 当然ポルセナは怒り燃え彼女の返還迫ったが、後に気が変わり彼女の身に危害加えない事を約束したため、ローマ応じた。彼女が戻ると、ポルセナはその勇気を讃え、残った人質のうち彼女が選ぶ一部解放しようと言い、彼女は若い男をすべて選んで解放したその後ローマでは彼女を讃え、ウィア・サクラにまるでエクイテスのように馬にまたがる彼女の像を作り、非常な名誉を与えたリウィウスまた、自分たちの時代行われる公的オークションは、ポルセナ王の私物売った伝統に基いており、クルシウムとの戦争ともいささか関係があると記している。リウィウスは、ポルセナがローマを去る時、困窮していたローマ人への贈り物として備蓄していた兵糧残していった事が由来であろうとしている。 紀元前507年、ポルセナはもう一度タルクィニウスを王位に戻すよう、元老院使者送ったローマ使者はポルセナの下に赴くと、ローマはタルクィニウスの復位絶対に認めない、ポルセナはローマ敬意表してタルクィニウスの復位要求止めるべきであると伝えた。ポルセナはそれに同意し、クルシウムより他へ亡命するようタルクィニウスに言った。 ポルセナはローマへ人質帰し条約によってウェイイ奪われていたローマ領土返還した。これによって、ポルセナとローマの間に堅固な和平結ばれたリウィウス記している。

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対ローマ戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 16:31 UTC 版)

ピュロス」の記事における「対ローマ戦」の解説

詳細は「ピュロス戦争」を参照 当時新興都市国家ローマイタリア半島南部都市国家タラスラテン語ではタレントゥム)と戦うことになった時、常備戦力をほとんど持たない経済都市タラスは、当時既に武将として盛名をあげていたピュロス莫大な報酬約束して傭兵として雇い入れたピュロス当時はまだほとんど無名であったローマ軍見て「あの蛮族陣形を見る限り野蛮ではないようだ」と評したという。 ピュロスローマ軍戦いヘラクレアの戦い紀元前280年)、アスクルムの戦い(紀元前279年))これを連戦連勝撃破したが、ギリシアから遠征してきたピュロス軍勢は戦うごとに数を減らし、またローマ講和応じないため、戦勝慶び述べた部下に対して、「もう一度戦ってローマ軍勝ったとしても、我々は全く壊滅するだろう」と言った。このことから、割り合わない勝利のことをピュロスの勝利と呼ぶようになった。 このローマとの講和の際に、捕虜身代金持ってきたローマ対し「私は商売に来たのではない。戦場決着つけよう」と答え講和前祝としてローマ軍捕虜無償返還した。これを受けてローマ側は「講和成立しなかったら捕虜を戻す」と約束し結果として講和条件をのまなかったため律儀捕虜ピュロス戻した。同じ頃、ピュロス侍医ピュロス毒殺ローマ持ちかけるローマはこれをピュロス知らせ感謝したピュロス先の捕虜を再び返還、これを受けてローマ側ピュロス軍の捕虜返還したというエピソードがある。 そのうちシチリア都市からは「カルタゴ追い払って欲しい」と、マケドニア王国からは「ガリア人殺されたケラウノス王(プトレマイオス息子)の後を継いでになって欲しい」とそれぞれ要請入り結局ピュロスシチリアからの援軍要請を受ける形でローマ軍の前から去った

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