対ローマ戦
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紀元前195年、ローマの前執政官ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスはアカイア人にペロポネソスでのナビスの力を抑えることを説かれ、ナビスに対してアルゴスをアカイアに返すか、ローマと戦争するかのどちらかを選ぶよう迫った。ナビスはアルゴス返還を拒絶し、フラミニウスはラコニアに侵攻した(ナビス戦争)。結局スパルタは敗れ、海へのアクセス権をスパルタに与えていたギュテイオン港の引渡しを強いられた。
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対ローマ戦
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ラルス・ポルセナは紀元前509年に起こった革命により王政ローマが崩壊し、半伝説的なローマ最後の王ルキウス・タルクィニウス・スペルブスが亡命してきた事から、ローマとの戦争に突入した。 追放された王族は元々エトルリア出身で、ポルセナへ助けを求めるまでにも幾度か王位奪還に失敗していた。 ポルセナ王は援助を確約し、クルシウムはエトルリアでも屈指の都市であると自信を見せた。 この後の展開には記録の相違がみられる。 リウィウスを含むローマの主流派による記録では、ポルセナ王はローマを攻囲したものの、ローマ人の勇敢な行動を目の当たりにして和平を求めたとしている。 しかしながら、ポルセナは確かにローマを攻略し、後に追い出されたのだとする説もある。 ただしタルクィニウス傲慢王が復位したとする記録はない。 したがって、もしポルセナが実際にローマを攻略していたとしても、自身が支配するためであって前王朝を復興させる意図はなかったのであろう。 一説によると、ローマ包囲中、ローマ人の若者ガイウス・ムキウスは元老院の許可を得て、ポルセナを暗殺しようと一人エトルリア陣に忍び込んだ。 ムキウスは王のところまでたどり着けはしたものの、同じような格好をしていた王と書記官の区別がつかず、書記官の方を殺してしまった。逃げようとした彼は程なく捕まってしまい、ポルセナの前に引き立てられると、ふてぶてしくも彼の素性と決意を言い放った。 恐れるがいい王よ、私以外にも三百人の若者が同じように貴様の命を狙っているぞ。誰かが成功するまで諦めることなどないのだ。そう言うと彼はその言葉を証明するかのように、右手を拷問の炎へと押し付けた。この行為により、彼と子孫たちはスカエウォラ (左手の)とあだ名された。 この若者の勇気に驚きかつ感銘を受けたポルセナは、ムキウスの縛めを解き、陣から帰した。 リウィウスによると、ポルセナはこの後直ちに和平条約を持ちかけたという。 ポルセナは和平条約でローマがウェイイから奪っていた土地の返還を求め、ヤニクルムの丘から兵を引く代わりに人質を取っている。その人質の一人、クロエリアという若い女性は、ローマ人の乙女たちを引き連れ、ティベリス河を渡ってエトルリア陣から逃げ出した。 当然ポルセナは怒りに燃え彼女の返還を迫ったが、後に気が変わり彼女の身に危害を加えない事を約束したため、ローマも応じた。彼女が戻ると、ポルセナはその勇気を讃え、残った人質のうち彼女が選ぶ一部を解放しようと言い、彼女は若い男をすべて選んで解放した。その後ローマでは彼女を讃え、ウィア・サクラにまるでエクイテスのように馬にまたがる彼女の像を作り、非常な名誉を与えた。 リウィウスはまた、自分たちの時代に行われる公的オークションは、ポルセナ王の私物を売った伝統に基いており、クルシウムとの戦争ともいささか関係があると記している。リウィウスは、ポルセナがローマを去る時、困窮していたローマ人への贈り物として備蓄していた兵糧を残していった事が由来であろうとしている。 紀元前507年、ポルセナはもう一度タルクィニウスを王位に戻すよう、元老院に使者を送った。ローマの使者はポルセナの下に赴くと、ローマはタルクィニウスの復位を絶対に認めない、ポルセナはローマに敬意を表してタルクィニウスの復位要求を止めるべきであると伝えた。ポルセナはそれに同意し、クルシウムより他へ亡命するようタルクィニウスに言った。 ポルセナはローマへ人質を帰し、条約によってウェイイに奪われていたローマの領土も返還した。これによって、ポルセナとローマの間に堅固な和平が結ばれたとリウィウスは記している。
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対ローマ戦
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詳細は「ピュロス戦争」を参照 当時の新興都市国家ローマがイタリア半島南部の都市国家タラス(ラテン語ではタレントゥム)と戦うことになった時、常備戦力をほとんど持たない経済都市タラスは、当時既に武将として盛名をあげていたピュロスを莫大な報酬を約束して傭兵として雇い入れた。ピュロスは当時はまだほとんど無名であったローマ軍を見て「あの蛮族は陣形を見る限り野蛮ではないようだ」と評したという。 ピュロスはローマ軍と戦い(ヘラクレアの戦い(紀元前280年)、アスクルムの戦い(紀元前279年))これを連戦連勝で撃破したが、ギリシアから遠征してきたピュロスの軍勢は戦うごとに数を減らし、またローマが講和に応じないため、戦勝の慶びを述べた部下に対して、「もう一度戦ってローマ軍に勝ったとしても、我々は全く壊滅するだろう」と言った。このことから、割りに合わない勝利のことをピュロスの勝利と呼ぶようになった。 このローマとの講和の際に、捕虜の身代金を持ってきたローマに対し「私は商売に来たのではない。戦場で決着をつけよう」と答え、講和の前祝としてローマ軍の捕虜を無償で返還した。これを受けて、ローマ側は「講和が成立しなかったら捕虜を戻す」と約束し、結果として講和条件をのまなかったため律儀に捕虜をピュロスに戻した。同じ頃、ピュロスの侍医がピュロス毒殺をローマに持ちかけるがローマはこれをピュロスに知らせ、感謝したピュロスは先の捕虜を再び返還、これを受けてローマ側もピュロス軍の捕虜を返還したというエピソードがある。 そのうち、シチリア諸都市からは「カルタゴを追い払って欲しい」と、マケドニア王国からは「ガリア人に殺されたケラウノス王(プトレマイオスの息子)の後を継いで王になって欲しい」とそれぞれ要請が入り、結局ピュロスはシチリアからの援軍要請を受ける形でローマ軍の前から去った。
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