対ローマ戦争
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詳細は「ユグルタ戦争」を参照 紀元前112年、再びヌミディア王を巡る争いが再燃、キルタへ滞在していたアドヘルバルをユグルタが突如攻撃した。アドヘルバルはローマからの援軍を見込んで、ローマ人が多数居住する地区で防衛することを決断した。しかし、ローマ軍はキンブリ戦争の最中で軍の多くがキンブリ戦争へ派兵されていた。元老院は執政官ルキウス・カルプルニウス・ベスティア(en)が率いるローマ軍をヌミディアへ派遣したが、ユグルタはそれに先立ってアドヘルバルの守備する地区を攻略して、アドヘルバルを攻め殺し、アドヘルバルに助力したローマ人を殺戮した。ローマはユグルタに対して宣戦布告したが、ローマの重装歩兵部隊は軽騎兵隊を中心としたヌミディア軍を攻めあぐね、戦線は膠着した。 ベスティアはユグルタからの交渉の申し出を受けて、ユグルタにとって有利な条件で講和を締結した。なお、この際にベスティアはユグルタから賄賂を受けたとされる。ベスティアの政敵であったガイウス・メンミウスは収賄の疑いでベスティアを告発し、ベスティアはローマへと召喚された。ユグルタもローマへ到着したが、ヌミディア王の潜在的なライバルであった従兄弟のマッシウァへ刺客を送り、また悪評を流したことでマッシウァの勢力の弱化を図った。 紀元前109年、ユグルタは再びローマとの戦争に突入。執政官クィントゥス・カエキリウス・メテッルスが率いるローマ軍がヌミディアへ侵攻し、ユグルタはムトゥルの戦いで敗北したが、以降は地の利を生かしてゲリラ戦を展開したことで再び戦争は長期化の様相を呈した。その中でローマ軍の一武将であったガイウス・マリウスはローマへ帰還して紀元前107年の執政官選挙へ出馬し当選した。 紀元前107年からマリウスがメテッルスに代わってローマ軍の指揮を取った。マリウスはルキウス・コルネリウス・スッラをユグルタの同盟国であったマウレタニアへと派遣した。スッラはマウレタニア王ボックス1世の協力を取り付けて、ユグルタを捕虜とすることに成功した。ユグルタの捕縛によって戦争は終結した。ユグルタはローマへと連行され、タレントゥム(現:ターラント)へ拘留された。 紀元前104年、マリウスの凱旋式でユグルタは引き回され、凱旋式後にカルケル・マメルティヌス(Carcer Mamertinus)にて処刑された。なお、ユグルタが失脚した後、ヌミディア王にはユグルタの兄弟のガウダ(Gauda)が就いた。
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対ローマ戦争
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こうして大帝国を打ち立てたティグラネス2世であったが、西方で発生したミトリダテス戦争との関係からその拡大政策は頓挫した。同盟者であったポントス王ミトラダテス6世は、周辺属州の支配権を巡って三次に渡る共和政ローマとの戦いを繰り広げていたが、最終的な敗北の後アルメニアへと逃げ込んだ。ローマの将軍ルキウス・リキニウス・ルクッルスはミトラダテス6世の引渡しを要求してきたが、ティグラネス2世はこれを拒否してローマに対抗する姿勢を示した。 しかしティグラネス2世はローマとの戦いで勝利を収めることはできなかった。前69年にはティグラノケルタが包囲され、ティグラネス2世はこの新首都を放棄せざるをえなかった(ティグラノセルタの戦い)。ティグラネス2世は続く紀元前68年にもアルタクサタの戦いでも敗れた。彼はパルティアに援軍を求めたが、同時期にローマもパルティアに同盟を提案しており、当時のパルティア王フラーテス3世は日和見を決め込んで曖昧な返事しか返してこなかった。ルクルスにその後ローマ側ではルクルスが軍隊の進軍反対を受けて撤退したが、アルメニアではティグラネス2世の息子のティグラネス(以下、小ティグラネス)が反乱を起こした。小ティグラネスはパルティア王フラーテス3世に援軍を求め、その結果パルティアがアルメニアに侵攻してきた。ティグラネス2世はこの息子の反乱を鎮圧してパルティアに対抗したが、小ティグラネスは今度はローマの将軍グナエウス・ポンペイウスの下に逃げ込み彼の支援を求めた。ポンペイウスは小ティグラネスを助けてアルメニア領土をティグラネス2世と小ティグラネスの間で分割するように迫り、ティグラネス2世はこれを受け入れた。 紀元前95年のアルタクシアス朝 紀元前66年までに併合した地域 ティグラネスに従属した国 一時的にティグラネスに従属した国 その他のコーカサス諸国 この一連の戦いでアルメニア本国以外の全ての征服地を喪失し、紀元前55年に死去した。死後、息子のアルタウァスデス2世が跡を継いだ。
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対ローマ戦争
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詳細は「ユダヤ戦争」、「キトス戦争」、および「バル・コクバの乱」を参照 ローマ帝国はユダヤでサンヘドリン(最高法院)に宗教的権威を認めながらも政治的権威を与えなかった。ユダヤは総督の支配におかれたが、総督たちがユダヤ文化を軽蔑し、失政を繰り返したこともユダヤ人の反感を募らせた(そもそもユダヤ人にはローマ帝国の国是である政教分離の概念が無かった)。その間、ヘロデ大王の孫アグリッパ1世がユダヤの統治をしたこともあったが、死後はまた総督直轄に戻された。 66年、ついにユダヤ人の不満が爆発し、ここに独立を目指してユダヤ戦争(第1次ユダヤ戦争)が勃発。しかし70年にはローマ軍が半年にわたってエルサレムを包囲し兵糧攻めにしてついに陥落、神殿も破られた。(この間の事情はフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』にくわしい。)。 115年からはキトス戦争が起き、132年にはバル・コクバに率いられた反乱(バル・コクバの乱)がおきた。バル・コクバはユダヤの独立を達成し、キリスト教徒を除く全ユダヤ人からメシアであると承認された。彼はエルサレムで二年半の間イスラエルの大公(ナーシー)として統治した。彼の公国は135年にローマ帝国によって征服された。 大きな反乱が続発し、ユダヤ人の統治の困難さに手を焼いたローマ人はユダヤ地方からユダヤ色を一掃しようと考え、ユダヤ人が忌み嫌っていたペリシテ人の名前をとり、この地方をパレスチナと名づけた。ユダヤ人たちはこれ以前にもすでに広くローマ帝国内や各地に離散していたが、ここに再び多くのユダヤ人が離散を余儀なくされ、長いディアスポラの時代が始まった。ローマによるエルサレム神殿破壊の結果、神殿祭儀中心の古代ユダヤ教は終焉し、以後ユダヤ教の学問の中心はガリラヤ地方に移り、ファリサイ派の伝統を下地に、今日の現代ユダヤ教にまで発展するユダヤ教の原型ができた。
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