ユダヤ戦争
第1次ユダヤ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/23 05:43 UTC 版)
「メナヘム (ガリラヤ)」の記事における「第1次ユダヤ戦争」の解説
10年後のA.D.66年、ユダヤは二年前に赴任したユダヤ総督ゲッシオス・フロロスによる略奪や虐殺行為により、ローマとユダヤ市民との間に大きな不和が起こり戦争一歩手前の緊迫した状況にあった。ユダヤの北方を治めていたヘロデ大王の子孫・アグリッパ2世が戦争を回避しようとエルサレムに来て、その説得で民衆も半ば沈静化したが、フロロスの後任が来るまで彼に従うよう言ったことが切っ掛けで都から追い返されてしまう。大祭司アナニアスの子で神殿警護長のエレアザル(エレアザロス)も同調し、ローマ人や皇帝の為の犠牲の儀式を中断させた。こうしたことから8月頃のエルサレムでは親ローマ派と叛徒との間で内戦が勃発する。叛徒はシカリ派を仲間に加え親ローマ派を追い出すと大祭司の家や王宮、借金の証文保管所などに火を放った。町の有力者や大祭司、ローマ兵やアグリッパ2世が派遣した兵士らはヘロデの宮殿に逃げ込んだため、8月15日に叛徒は攻囲を始め戦闘は昼夜問わず続いた。 同じ頃、メナヘムは死海の西端に位置するマサダ要塞を襲撃し、奇策を使ってローマの守備兵を殺してその地を占拠した。そこでヘロデ大王の武器庫を開くと、同郷の者や他の叛徒に武器を配って完全武装させた。そうしてメナヘムはこれらの者を護衛にしてエルサレムに向い、反乱の指導者となって宮殿の包囲を指揮した。包囲軍は攻城兵器がなかったため、地下通路を掘って宮殿の塔を崩したが、事前に察知されて内側に新たな壁を築かれてしまう。一方で中の者たちはメナヘムらに外への脱出を求めると、王の兵士らとエルサレムの住人にのみ許可してローマ兵は中に取り残された。ローマ兵たちは和睦を屈辱として陥落間近の拠点を棄ててヒッピコス、ファサエロス、マリアムメと呼ばれる塔に逃げ込んだ。メナヘムらは兵士が棄てた陣地を襲撃し、逃げ遅れた者を殺して物資を奪うと火を放った。
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