ユダヤ戦争
(第一次)ユダヤ戦争 | |
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![]() David Robertsによる絵画(作:1850年) | |
戦争:ユダヤ・ローマ戦争 | |
年月日:66年 - 73年(70年[1]) | |
場所:エルサレム、マサダ他 | |
結果:ローマ帝国の勝利 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
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シモン・バル・ギオラ ギスカラのヨハネ エルアザル・ベン・シモン ヨセフ・ベン・マタティアフ |
戦力 | |
70,000名 | 最大100,000ともされる |
損害 | |
- | 不詳ながら市民多数が死亡 |

ユダヤ戦争(ユダヤせんそう、ヘブライ語: המרד הגדול、アルファベット表記:ha-Mered Ha-Gadol)は、帝政ローマ期の66年から73年(あるいは70年[1])まで、ローマ帝国とローマのユダヤ属州に住むユダヤ人との間で行われた戦争である[2]。
経緯
開戦までの経緯
ヘロデ大王の死後、ユダヤ属州はローマの総督によって直轄されていたが、大王の孫であったアグリッパ1世は巧みにローマ側にすりよって、41年にユダヤの統治を委ねられた。このアグリッパ1世が44年に病死すると、再びユダヤ地方はローマの直轄地となった。当時のローマ帝国は基本的に被支配民族の文化を尊重し、統治者としてバランスのとれた巧みな統治政策を示しているが、多神教文化であった地中海世界の中で、一神教を奉ずるユダヤは特殊な文化を持った地域であったため、支配されていたユダヤ人のローマへの反感は日増しに高まった。
開戦
フラウィウス・ヨセフスによると、「ユダヤ戦争」が勃発した発端はカイサリアにおけるユダヤ人の殺害であったという。即ち、当時のユダヤ属州総督フロルスがエルサレムのインフラ整備のための資金として神殿の宝物を持ち出したことにあったといわれている[3]。これをきっかけにエルサレムで過激派による暴動が起こった。ユダヤ側の指導者は、シモン・バル・ギオラ(Simon Bar-Giora)、ギスカラのヨハネ(John of Gischala)、エルアザル・ベン・シモン(Eleazar ben Simon)らと伝えられるが、いずれも強硬派・原理主義者に属した点も事態過激化への呼び水となった。
ローマ側は暴動の首謀者の逮捕・処刑によって事態を収拾しようとするが、逆に反ローマの機運を全土に飛び火させてしまう。主導権争いと仲間割れを繰り返し、意思統一ができていなかった[4]ユダヤ人たちは反ローマで結束し、隠遁修行生活をしていたエッセネ派も反乱に加わった。フロルスはシリア属州の総督が軍団を率いて鎮圧に向かうも、反乱軍の前に敗れてしまう。事態を重く見たネロ帝は将軍ウェスパシアヌスに三個軍団を与えて鎮圧に向かわせた[5]。
ウェスパシアヌスは息子ティトゥスらと共に出動すると、エルサレムを攻略する前に周辺の都市を落として孤立させようと考え、ユダヤの周辺都市を各個撃破していった。こうしてウェスパシアヌスらはユダヤ軍を撃破しながら、サマリアやガリラヤを平定し、エルサレムを孤立させることに成功した[6]。
エルサレム陥落
68年4月、ガリア・ルグドゥネンシス属州総督であったガイウス・ユリウス・ウィンデクスによる反乱が発端となって、同年6月にネロが自殺。69年には4人のローマ人が次々と皇帝に即位(「4皇帝の年」)した他、ゲルマニアでガイウス・ユリウス・キウィリスを首謀者とした反ローマの反乱が勃発する等、ローマは大混乱に陥った。ウェスパシアヌスもエルサレム攻略を目前にして、ローマへ向かった。ローマ軍の司令官不在のまま、ユダヤ戦争は一旦、戦線膠着状態となった[7]。
69年12月にアウルス・ウィテッリウスが殺害され、唯一のローマ皇帝としてローマ帝国を掌握したウェスパシアヌスは懸案のエルサレム陥落を目指して、ティトゥスを攻略に向かわせた。70年、ユダヤ人たちは神殿やアントニウス要塞に拠って頑強に抵抗したが、圧倒的なローマ軍の前に敗北し、エルサレム神殿はユダヤ暦第6月8日、9日、10日に火を放たれて炎上し、エルサレムは陥落した。エルサレムを舞台とした叛乱は鎮圧され、ティトゥスはローマへと凱旋した。このときつくられたのが、フォロ・ロマーノに今も残るティトゥスの凱旋門である。そこにはエルサレム神殿の宝物を運ぶローマ兵の姿が刻まれている[7]。
マサダの戦い
エルサレムは陥落したが、ギスカラのヨハネら一握りのユダヤ人が、かつてヘロデ大王の築いたマサダやヘロディオン、マカイロスといった各地の砦に立てこもって抵抗を継続した。中でも約1千人のユダヤ人が籠城したマサダ砦の戦いは、詳細な記録が残されている。マサダは切り立った岩山の上にあり、包囲したローマ軍団の指揮官・ルキウス・フラウィウス・シルバは力攻めは不可能と判断し、周囲の断崖を埋めて突入路を築く作戦を立てた。3年がかりで砦の絶壁が埋められ、完成目前となった突入路を見て敗北を悟ったユダヤ人集団は、ローマ軍の突入前夜に自ら集団自決した。73年の出来事とされるマサダ陥落で、ユダヤ戦争は終結した[8]。
戦後のユダヤ
この戦争を「第1次ユダヤ戦争」といい、ハドリアヌス帝治世下の132年から135年にかけて再び勃発したバル・コクバを指導者とする叛乱(バル・コクバの乱)は「第2次ユダヤ戦争」と称される[9]。
この戦争以後、エルサレムにローマの一個軍団(第10軍団)が常駐することになった[10](それまではユダヤ人の民族感情を刺激しないためにカイサリアに駐屯していた)。
ガリラヤ攻略戦でローマに投降したユダヤ側将校のフラウィウス・ヨセフスは、この戦争の経過を詳細に書き残した。これが「ユダヤ戦記」である。戦争の参加者自らの書いた一次史料として貴重な記録であるが、伝わるはずのないマサダ砦の指導者の「最後の演説」などが含まれており、ヨセフスの主観や後世の脚色も多分に含まれているとされる[11]。
関連項目
脚注
参考文献
- 関谷定夫著『聖徒エルサレム 5000年の歴史』東洋書林、2003年
- 長窪専三著『古典ユダヤ教事典』教文館、2008年、ISBN 978-4-7642-4033-9
- フラウィウス・ヨセフス著『ユダヤ戦記1』 秦剛平訳、2002年、ISBN 4-480-08691-9
- フラウィウス・ヨセフス著『ユダヤ戦記2』 秦剛平訳、2002年、ISBN 4-480-08692-7
- フラウィウス・ヨセフス著『ユダヤ戦記3』 秦剛平訳、2002年、ISBN 4-480-08693-5
第1次ユダヤ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/23 05:43 UTC 版)
「メナヘム (ガリラヤ)」の記事における「第1次ユダヤ戦争」の解説
10年後のA.D.66年、ユダヤは二年前に赴任したユダヤ総督ゲッシオス・フロロスによる略奪や虐殺行為により、ローマとユダヤ市民との間に大きな不和が起こり戦争一歩手前の緊迫した状況にあった。ユダヤの北方を治めていたヘロデ大王の子孫・アグリッパ2世が戦争を回避しようとエルサレムに来て、その説得で民衆も半ば沈静化したが、フロロスの後任が来るまで彼に従うよう言ったことが切っ掛けで都から追い返されてしまう。大祭司アナニアスの子で神殿警護長のエレアザル(エレアザロス)も同調し、ローマ人や皇帝の為の犠牲の儀式を中断させた。こうしたことから8月頃のエルサレムでは親ローマ派と叛徒との間で内戦が勃発する。叛徒はシカリ派を仲間に加え親ローマ派を追い出すと大祭司の家や王宮、借金の証文保管所などに火を放った。町の有力者や大祭司、ローマ兵やアグリッパ2世が派遣した兵士らはヘロデの宮殿に逃げ込んだため、8月15日に叛徒は攻囲を始め戦闘は昼夜問わず続いた。 同じ頃、メナヘムは死海の西端に位置するマサダ要塞を襲撃し、奇策を使ってローマの守備兵を殺してその地を占拠した。そこでヘロデ大王の武器庫を開くと、同郷の者や他の叛徒に武器を配って完全武装させた。そうしてメナヘムはこれらの者を護衛にしてエルサレムに向い、反乱の指導者となって宮殿の包囲を指揮した。包囲軍は攻城兵器がなかったため、地下通路を掘って宮殿の塔を崩したが、事前に察知されて内側に新たな壁を築かれてしまう。一方で中の者たちはメナヘムらに外への脱出を求めると、王の兵士らとエルサレムの住人にのみ許可してローマ兵は中に取り残された。ローマ兵たちは和睦を屈辱として陥落間近の拠点を棄ててヒッピコス、ファサエロス、マリアムメと呼ばれる塔に逃げ込んだ。メナヘムらは兵士が棄てた陣地を襲撃し、逃げ遅れた者を殺して物資を奪うと火を放った。
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