第三次マケドニア戦争
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第三次マケドニア戦争(だいさんじマケドニアせんそう、イタリア語:Terza guerra macedonica)は、共和政ローマとマケドニア王国(アンティゴノス朝)の間で争われたマケドニア戦争の3度目にあたる戦争であり、紀元前171年から紀元前168年まで行われた。最終決戦となったピュドナの戦い (紀元前168年)でローマ軍はマケドニア軍に大勝して、アンティゴノス朝は断絶した。また、共和政ローマによるヘレニズム諸国征服の端緒となった。
- ^ プルタルコス『英雄伝』アエミリウス・パウルス9
- ^ プルタルコス『英雄伝』アエミリウス・パウルス9
- ^ プルタルコス『英雄伝』アエミリウス・パウルス15
- ^ プルタルコス『英雄伝』アエミリウス・パウルス16
- ^ プルタルコス『英雄伝』アエミリウス・パウルス17
- ^ プルタルコス『英雄伝』アエミリウス・パウルス22
- ^ プルタルコス『英雄伝』アエミリウス・パウルス18
- ^ プルタルコス『英雄伝』アエミリウス・パウルス20
- ^ プルタルコス『英雄伝』アエミリウス・パウルス22
- ^ プルタルコス『英雄伝』アエミリウス・パウルス34
- ^ プルタルコス『英雄伝』アエミリウス・パウルス37
- ^ プルタルコス『英雄伝』アエミリウス・パウルス29
- 1 第三次マケドニア戦争とは
- 2 第三次マケドニア戦争の概要
- 3 参考文献
第三次マケドニア戦争
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「クィントゥス・マルキウス・ピリップス (紀元前186年の執政官)」の記事における「第三次マケドニア戦争」の解説
マケドニアとの新しい戦争は避けられないものとなったが、まだ開戦する前の紀元前172年ピリップスは再び外交使節の長としてバルカン半島に赴いた。同行した他の使節はアウルス・アティリウス・セッラヌス、プブリウス・コルネリウス・レントゥルス、セルウィウス・コルネリウス・レントゥルス、およびルキウス・デキミウスであった。彼らは千人からなる分遣隊とともにケファロニア島に渡り、そこで二手に別れた。ピリップスとセッラヌスはエペイロス、アエトリア、テッサリアを巡り、戦争となったらローマに味方するように説得した。ペーネイオス川の川岸で、大使達はマケドニア王ペルセウスと会談を持った。ペルセウスはピリップスとの個人的な関係を頼りにしており、再度友人関係を構築しようとした。ピリップスはペルセウスを和平の可能性があると欺き、ローマに使者を送って交渉を続けるよう説得することにより時間を稼いだ。リウィウスには「事実、ローマ人はその時点で戦争の準備ができていなかった。軍隊も編成されておらず、指揮官も任命されていなかった。一方ペルセウスがは全ての準備を完了し、完全に装備されていた軍隊を持っていた。ペルセウスが和平の希望に目がくらんでいなければ、最高の時に戦争を開始でき、ローマにとっては最悪の状態になっていただろう」と記している。 続いてピリップスとセッラヌスはボイオーティアへ向かい、ボイオーティア同盟を解散して各都市がローマの保護下に入るように説得した。さらにエウボイア島とペロポネソス半島の諸都市を訪ねた。冬が始まると、彼らはローマに戻った。何人かの元老院議員は、彼らのギリシアでの交渉には価値がないと非難したが、多くは彼らの活動全てを承認した。ピリップスは再びギリシアに渡ることになるが、今度は軍を率いてであった。ピリップスは二つの都市を強襲し、続いてハルキスでローマ海軍と合流した。 ローマを長期間不在にしていたにも関わらず、ピリップスは169年に再び執政官に選ばれた。同僚のパトリキ執政官はグナエウス・セルウィリウス・カエピオであった。抽選の結果、ピリップスはマケドニアとの戦争を担当することになったが、現地の状況はあまり良くなかった。軍の指揮はプロコンスル(前執政官)プブリウス・リキニウス・クラッススと執政官アウルス・ホスティリウス・マンキヌスが持っていたが両者ともに敗北し、軍には脱走者が多数出ていた。 二度目の執政官に就任したピリップスは、5000人の兵士を率いてブルンディシウム(現在のブリンディジ)からアカルナニアへと渡った。ローマ艦隊の司令官は親戚(おそらくいとこ)のガイウス・マルキウス・フィグルスであった。テッサリアのパレファルサルの近くで、ピリップスはマンキヌスの軍隊を引き継ぎ、マケドニアへと向かった。山中を行軍していると、敵が攻撃してきた。その後の戦いも、明らかにマケドニアが有利であった。シケリアのディオドロスは、「岩と渓谷に挟まれた敵の全軍を殲滅するには、角笛を鳴らして信号を送るだけでよかった」と記しているが、ペルセウスは戦いを激化することはしなかった。ピリップスはすでに高齢で非常に太っていたが、全ての軍事的な仕事をこなした。ピリップスは軍を率いて山を越え、マケドニアの平地に降りていった。ペルセウスは、ローマ人がこのような大胆な一歩を踏み出すとは思っていなかったのでパニックを起こし、慌てて艦隊を燃やし、国庫を海に沈めるように命じた。しかし、ピリップスは供給が困難であったために、それ以上の進撃はせずテッサリア国境から動かなかった。 南マケドニアに滞在するピリップスの元に、アカイア同盟が使節を送ってきた。その中には後の歴史家ポリュビオスも含まれていた。アカイア同盟はローマへの軍事援助を申し出たが、ピリップスは「ローマは同盟を必要としない」とこれを断った。また、別の軍司令官であるアッピウス・クラウディウス・ケントに援軍を送ることも禁止した。ピリップスはテッサリア国境で冬営し、紀元前168年の初めに、新たな執政官であるルキウス・アエミリウス・パウッルスに軍を引き渡した。このパウッルスがペルセウスを捕虜にして戦争に勝利し、マケドニクスを名乗ることとなる。
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第三次マケドニア戦争
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「ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス」の記事における「第三次マケドニア戦争」の解説
紀元前168年に再度コンスルに選ばれ、第三次マケドニア戦争でアンティゴノス朝のペルセウスに対して戦い(ピュドナの戦い (紀元前168年))、ペルセウスを捕虜とする。これによりマケドニア戦争は終結、アンティゴノス朝は滅亡した。この際にマケドニア内の対抗勢力 500 人を虐殺、多数をローマに強制連行、財産をローマの名のもとに没収した。 ペルセウスとの戦いで脱走した外国人兵を、スキピオ・アフリカヌスと同じように見せしめとして象に踏み潰させたという逸話が残っている。偽装退却を行ったが相手が乗って来なかったため、敵のファランクスに対し、騎兵に盾を持たせて前面を横断させ、通りすがりに敵のサリッサを折って戦意を挫いたという。この戦いにはマシニッサの子ミサゲネスも参加しており、戦後祖国へ帰る途中嵐に見舞われ生死の境をさまよったが、元老院は彼の介抱に全力を尽くし、配下の騎兵にも補償したという話が伝わっている。
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