現地の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:02 UTC 版)
「インドネシア共和国革命政府」の記事における「現地の状況」の解説
軍事作戦の初期段階では、中央政府側の役人と現地職員が自らの身を守るために避難しており、行政側の活動は麻痺していた。PRRI支配地域での行政を復活させるため、中央軍は中央スマトラ州を三分割した。そのうちの一つが後に主戦場となる西スマトラ州である。5月18日、カハルッディン・ダトゥク・ランカヨ・バサ(インドネシア語版)が西スマトラ州の初代知事に任命された。彼は1965年まで知事を務めるが、中央政府から送られた国の代表として、また地域社会のリーダーとして、PRRIという緊急事態の中で大きな重圧にさらされてゆくことになる。 他方、中央軍の動きも統制を欠いていた。中央軍の兵士は地元住民へ暴行を働き、PRRIに同情的とみなされた数千人の人々が恣意的に拘束され、あちこちで大量殺人が起こった。一例として中央軍がブキティンギ市内の時計塔付近で187人の容疑者を射殺したことが記録されているが、このうち17人だけがPRRI兵士で、その他は一般住民であった。その後、遺体は時計塔前の広場に並べられた。 1958年の4月中ごろから1960年にかけて、地域にあるすべての中学校・高等学校は閉鎖された。この二年間に開講していたほとんど唯一の学校であるアンダラス大学(インドネシア語版)も、所属するほとんどの講師と学生がPRRI運動へ参加したため、閉鎖を余儀なくされた。1960年の終わりには、西スマトラ州の全域が中央軍によって掌握されるに至った。 ナスティオンは、PRRIとの戦闘によって7146名の一般市民が殺され、そのほとんど(6115名)は「PRRI側によるもの」であったと記した。サーフルッディン・バハール退役陸軍准将は、短期間に終わったPRRI反乱の犠牲者は、独立革命におけるオランダとの戦争の犠牲者よりもはるかに多かったと述べている。 紛争は3年ほど続いたが、中央軍はPRRI軍を山間部へ追い込むことに成功していた。PRRI軍は本部を置いていたコトティンギをはじめとする都市を奪われ、独立戦争以来のゲリラ戦に徹することとなった。 通常の軍事行動に加え、中央政府は交渉の一環として、PRRIへ参加した兵士たちに対し、降伏してインドネシア共和国と中央軍へ復帰し再び忠誠を見せるよう働きかけた。この行動は「プマンギラン・クンバリ(召還)作戦」と呼ばれる。作戦は功を奏し、1961年5月28日には、運動の指導者とみられていたアフマド・フセイン自身が指揮下の兵士ら約2万4500名をともなって降伏した。さらに中央政府は、PRRIへ参加した市民や軍関係者に対して特赦を発し、1961年6月22日の「1961年大統領令第332号」によって公式に宣言された。この中央政府側の声明に応えて、多数のPRRI指導者らが投降したが、一部は徹底抗戦をはかり、結局1961年9月28日にモハマッド・ナシールらが降伏するまで組織的抵抗は続いた。 実際にはここで約束された特赦は罠にすぎなかった。何年もの間、PRRIの政治・軍事指導者は隔離され、一般社会においても大学生およびその他の学生たちは周囲の圧力を感じることになった。
※この「現地の状況」の解説は、「インドネシア共和国革命政府」の解説の一部です。
「現地の状況」を含む「インドネシア共和国革命政府」の記事については、「インドネシア共和国革命政府」の概要を参照ください。
現地の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 03:13 UTC 版)
ウシュマルの復元作業は、建物が通常より良好に残っていたおかげで他の多くのマヤ遺跡よりも良い条件で行うことができた。建物によく使われる漆喰のツナギを使用しないで精巧に切り取られた切り石を使用して建てられている。ウシュマルにある建造物は、優雅さと美しさにおいてパレンケの建造物に匹敵するものである。ウシュマルにおいては、その前半の時期においては、その大部分がプウク式の建物である。保存状態が良好であるため、一般の観光客にも当時のウシュマルの祭祀センターの様子をほぼ完全な形で想像させることのできる数少ないマヤ遺跡のひとつとなっている。 よく知られている著名な建造物は下記のとおりである。 総督の館 壮大な基壇の上に長いがそれほど高くない建造物が建てられている。これは、コロンブス到着以前のメソアメリカでは、最長の外観をほこる建造物である。 魔法使いのピラミッド(英語版) 別名「占い師のピラミッド」。高さ36.5メートルの巨大なピラミッドの土台は楕円形に近い形で、長さが73メートル、幅が36.5メートルある。急傾斜で有名な118段の階段を上ると、頂上には神殿がある。このピラミッドはいくつかの点で通常ではない良好な状態の建造物である。テオティワカンのピラミッド等と同じで小さな神殿が順次大きな神殿へと拡大された。魔法使いの老婆が暖めた卵から生まれてきた小人が、超自然的な力で一夜のうちに造ったというマヤの伝説から、「小人のピラミッド」とも言われている。 尼僧院 内面と外面に精巧で美しい彫刻が施されたウシュマルにあるいくつかの中庭を方形の回廊状に囲む良好に残された建造物の中でもっともすばらしい建物である。なお、尼僧院とはスペイン人によってつけられたあだ名で、実際には支配者の宮殿と考えられる。 大球戯場 メソアメリカ独特の球戯が行われた場所で、901年にチャン=チャク=カクナル=アハウという王によって奉献されたという銘文が刻まれている。 ウシュマルには、ほかにも注目すべき建物や多くの神殿ピラミッド、方形回廊状建物や記念碑、埋まったまま保存されている建物がある。 マヤ文字が刻まれた銘文の多くは、一連の石碑に刻まれているが、一つの神殿に対になるようにグループになっているわけではない。この石碑に刻まれているのは歴代のウシュマルの王たちである。また石碑は、たおれかかっていたり、ばらばらに壊れそうな兆候を示しているので、建て直したり修復したりする必要がある。
※この「現地の状況」の解説は、「ウシュマル」の解説の一部です。
「現地の状況」を含む「ウシュマル」の記事については、「ウシュマル」の概要を参照ください。
現地の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 22:25 UTC 版)
決壊した平和池は再建されることなく、21世紀の現在に至る。池の跡周辺には亀岡市により鎮魂碑などが建立され、過去の被害を伝えている。
※この「現地の状況」の解説は、「平和池水害」の解説の一部です。
「現地の状況」を含む「平和池水害」の記事については、「平和池水害」の概要を参照ください。
現地の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 14:55 UTC 版)
「ニントゥアン第二原子力発電所」の記事における「現地の状況」の解説
2011年9月に、ルポライターの奥窪優木が現地を取材。原発の危険性が知らされないまま、住民の間で「原発歓迎ムード」がただよっていることや、原発から5キロメートルほどしか離れていない場所に、住民の立ち退きが予定されていることが明らかとなった。 同11月にはFoE Japanの満田夏花が現地を調査し、住民に原発の危険性が知らされておらず、数キロメートルしか離れていない場所に移住する予定であること、予定地周辺は国立公園に指定されており、ウミガメの生息地であることなどが報告された。また、2012年2月には映像ジャーナリストの中井信介が現地を取材し、農業・漁業ともに豊かな様子や、風力発電の適地であること、村長が2010年に福島第一原子力発電所を視察したと話す様子などが紹介されている。 なお、この地域には先住民であるチャム人が多く住み「波の神」と呼ばれる津波の伝説が伝えられている。2011年3月21日には、津波対策として原発周辺に15メートルの堤防を建設する方針であることが報道された。一方、地震の発生は少ないとされるベトナムだが、最近多くなってきているとの指摘もある。 2012年5月21日には、ベトナム人453人が署名した『日本国政府がベトナムの原発建設を支援するのは「無責任、もしくは非人間的、不道徳な行動だ」』などと抗議する文書が、在ベトナム日本大使館や日本国外務省に送付したことが報道された。
※この「現地の状況」の解説は、「ニントゥアン第二原子力発電所」の解説の一部です。
「現地の状況」を含む「ニントゥアン第二原子力発電所」の記事については、「ニントゥアン第二原子力発電所」の概要を参照ください。
- 現地の状況のページへのリンク