現地の戦況
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1943年6月30日の連合軍によるレンドバ島上陸に始まる中部ソロモンを巡るニュージョージア島の戦いは、9月28日に始まる「セ号作戦」によって日本の現地部隊は、ニュージョージア島、コロンバンガラ島から撤退し、10月6日にはベララベラ島からも撤退した。これに先立って7月27日にはイサベル島のレカタ基地も撤収しており、秋には中部ソロモンから日本軍の姿が消えることとなった。 また、日本軍が南東方面の確保すべき要域として戦闘が続いていた東部ニューギニアのラエおよびサラモア地区も、9月4日、ラエの東方ホポイに連合軍が上陸、その北方ナサブには空挺部隊が降下し、この結果ラエの日本軍はサラモアを迂回しワウ付近から北上する連合軍部隊との間で三方から包囲される体勢となった。これによりラエ、サラモア地区は急速に事態が悪化、周辺地域から後退しつつラエ付近に集結した日本軍守備隊は一路サラワケット山脈を越えてフォン半島北部のシオ(英語版)へ転進を決めた(サラワケット越え)。しかし連合軍の攻勢は止まず、9月22日にはそのフォン半島の先端部北部に位置するアント岬(英語版)に上陸、その南方の半島先端部の要衝フィンシュハーフェンへと迫った。当時この付近の日本軍部隊は広く分散しておりまた、フォン半島南部のホポイに上陸した連合軍に対する備えのため、部隊の多くを半島南部に展開していた。連合軍はその日本軍の手薄な、しかもダンピール地区の要衝フィンシュハーフェンの間近である半島先端部の北部に上陸してきたのである。このため日本軍は対応に手間取り、10月4日には早くも連合軍はフィンシュハーフェンの飛行場を占領、これを使用し始めた。その後マダン方面から陸路送られた第20師団の攻撃が10月16日より開始されたが、同地の奪回はならず、24日にはフィンシュハーフェンの西サテルベルグ(英語版)高地へ後退した。 詳細は「フィンシュハーフェンの戦い」を参照 ラム河谷ではラエ・サラモア地区から西進したオーストラリア軍と日本軍との激しい戦闘が続いていた。 詳細は「ラム河谷の戦い(英語版)」を参照 10月12日にはキリウイナ島基地から飛び立った米第5空軍所属の大型爆撃機87機、中型爆撃機114機、ビューファイター12機、P-38戦闘機125機、その他合計349機による、連合軍による初のラバウル昼間爆撃があった。こうした状況下、南東方面の10月後半の前線は、東部ニューギニアと西部ニューブリテン島をつなぐダンピール海峡周辺からソロモン諸島のブーゲンビル島、ショートランド諸島の線にまで後退していた。 また、昨年末来積極的な活動の見えなかった米機動部隊は5月以降、新造空母のエセックス級、インディペンデンス級の増勢などを受けた結果、秋には正規空母6隻、軽空母5隻となり日本海軍に対してようやく優位な陣容を構えるにいたり、8月31日のベーカー島空襲を皮切りに再び活動を開始、9月1日に南鳥島、同月16日にはギルバート諸島、そして10月にはウェーク島を相次いで空襲、大本営は「敵機動部隊による本土空襲のおそれあり」と警報を発した。このため連合艦隊はこれを迎え撃つため「連合艦隊Z作戦要領」に従い、トラックから第二艦隊、第三艦隊を中心とする機動部隊が出撃することとなった。 1943年の9月初め、連合艦隊は内地で米軍の無線の傍受を行っていた通信隊から米軍の無線通信の増加や電文中に見慣れぬ艦名の符号が現れたことから、近く何かの作戦を起こす可能が高いとの報告を受けていた。9月18日、第二艦隊(重巡洋艦部隊及び第二水雷戦隊)、第三艦隊(空母翔鶴、瑞鶴と戦艦金剛、榛名からなる機動部隊、瑞鳳はトラックにて待機)は訓練も兼ねてトラックを出撃、マーシャル諸島沖へ向かった。直後にレキシントン、プリンストン、ベロー・ウッドの三隻の空母からなるアメリカ海軍の機動部隊がギルバート諸島を空襲した。第二、第三艦隊はそのままマーシャル諸島のブラウン環礁(別名エニウェトク環礁)へ到着、9月21日に空母瑞鳳と駆逐艦野分、舞風と合流し決戦に備えたが、アメリカ海軍の機動部隊はそのまま真珠湾へ帰ってしまったため、25日にトラックへ帰還した。 詳細は「ウェーク島の戦い」を参照 10月6日、米機動部隊はウェーク島を空襲した。これに対し連合艦隊は、9月1日の南鳥島空襲、19日のギルバート諸島の空襲と同様に攻略の意図のない一過性のものでありまた、この空襲は南東方面への新攻勢に関連した陽動作戦と判断し、むしろダンピール地区への警戒を命令し、七〇二空陸攻18機をマーシャル方面へ送ることを命令した以外は事態を静観する体勢であった。しかし翌7日も同島は空襲を受けたため、連合艦隊は事態の容易ならぬことを知り、Z作戦中の「丙作戦第一法警戒」(ウェーク島方面敵来攻時のZ作戦)を発令し、トラック在泊の艦隊に出撃準備を命じた。しかし翌8日の敵情判断により攻略の意図なしと判断、警報を解除し艦隊の出撃準備も取りやめ、七〇二空の陸攻もラバウルに帰投した。しかし、米機動部隊のその後の動静は不明であり、そんな中軍令部は諸情報を総合的に判断した結果、中部太平洋方面または本州方面に敵機動部隊来攻の兆しありと判断し、10月14日各部に警戒を指示、本土で練成中であった第一航空艦隊を連合艦隊の指揮下に入れた。だが連合艦隊では燃料事情の逼迫のため、艦隊の出撃に対し慎重になっており、通信情報などから敵艦船の活発な移動は米西岸~ハワイ間のものであり、機動部隊来襲の算は少ないと判断していた。そのためZ作戦は発令せず、念のため本土方面来襲の措置をとるに留め、この結果角田覚治中将率いる第一航空艦隊司令部は15日朝に練成先の鹿屋を出発、同日中に霞ヶ浦に進出した。しかし16日になり、軍令部は再び機動部隊の来襲に対する警報を発した。連合艦隊では敵機動部隊来襲に対しては上記の判断に立っていたが、この再度の警報に接し、中央のこの判断は連合艦隊の入手するもの以外の、新たな情報源に基づいた判断ではないかと考え、同日「丙作戦第五法」(ウェーク島、マーシャル諸島に敵が同時に来攻する場合のZ作戦)を発令した。17日、第二艦隊、第三艦隊、及び第一戦隊、第二戦隊(この二つの戦隊は戦艦大和、武蔵、長門、扶桑からなる戦艦部隊)よりなる決戦部隊がトラックを出発、19日ブラウン環礁に入泊した。 同日、真珠湾へ偵察に向かった潜水艦艦載機は米空母が六隻とも真珠湾に停泊中と報告、22日夕方になり軍令部は敵機動部隊来襲のおそれなしと判断、警戒措置を解除した。一方、連合艦隊は23日ブラウンを発進、24日ウェーク島南西200浬にて索敵したが敵情を得ず、25日に戦艦部隊を目標とする航空戦訓練や艦艇による射撃訓練などを実施、26日「丙作戦第五法」を解除し、トラックに帰投した。この結果、艦隊用の燃料を大量に消費し、以後の作戦に支障を来す事態となってしまった。中澤佑軍令部第一部長による業務日誌の10月28日記事には、連合艦隊の燃料事情についての以下のような記事がある。 GF(連合艦隊)燃料 GF五万トン消費セリ 3F(第三艦隊) 2Sd(第二水雷戦隊) 10月末出動可能。 3F+2F(第二艦隊) 11月初旬出動可能。 3F+2F+1S(第一戦隊) 11月10日出動可能。 全力 11月中旬以後。 トラック基地に備蓄されている燃料は内地からもたらされていた関係上、その航路上でタンカーが潜水艦の攻撃を受けるとトラック基地の燃料事情が即悪化するような状況になっており、1943年の夏頃から米潜水艦の活動が活発化、10月中だけでタンカーの喪失大破は4隻、4万数トンに及び、艦隊に随伴できる給油艦もなく燃料補給にも事欠くような状況だった。こうした状況下で連合艦隊は10月27日、連合軍のモノ島上陸の報に接することになった。
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