現地における日本軍将兵の実態
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「シベリア出兵」の記事における「現地における日本軍将兵の実態」の解説
一般兵士の間では戦争目的が曖昧だったことから、日本軍の士気は低調で、軍紀も頽廃していた。この現象は鉄道で戦地へ移動する段階から既に見られた。 「 一般ニ士気発揚シアラサルカ如シ 即チ戦争ノ目的ヲ了解シアラサルノミナラス官費満州旅行位ノ心得ニテ出征シアルモノ大部ヲ占ムルノ有様ナリ 」 —朝鮮軍司令官兵站業務実施報告 また、チェコ軍救済と称してウスリー鉄道沿いにシマノフカまで前進した日本軍先陣部隊が、その先には「ロシア人しかいないと言われて引き返し」、その後再び前線に送り出されるという「滑稽な一幕」もあったという。 士官・幹部も同様で、ウラジオストクの某参謀将校が毎日「裸踊り」の観覧にうつつを抜かしていたことについての報告が残っている。戦線が泥沼化した1920年の段階でも同地の派遣軍首脳部は「三井、三菱に出入りして、玉突きや碁将棋に日を消し」ており、少壮将校は「酒楼に遊蕩」していたとされる。 このような状況を、匿名の投書で告発する兵士も出現した。黒竜会の機関紙『亜細亜時論』へ投書された告発書は、その内容ゆえに公表が一時憚られたが、「改革カ亡国カ 隊改良ニ関スル絶叫書」(以下「絶叫書」と略記)なるタイトルが付され「極秘トシテ当路扱ヒ少数識者ノ間ニ頒ツ」(同序文)こととされた(外務省記録、「出兵及撤兵」)。 同「絶叫書」の内容は全8節からなる長大なものだった。以下内容の一部を紹介する。 「軍紀頽廃ノ実例」の節は、さらに「(イ)敬礼ヲ避ケル」「(ロ)社会主義ノ気分漲ル」「(ハ)殆ド盗ヲナサザルモノナシ」「(ニ)計手ハ皆泥棒」「(ホ)歩哨ノ無価値」の各小節に分かれている。 (ハ)の項では、村の民家から鵞鳥・鶏・豚・牛を盗んでは食べる兵士の不品行を糾弾している。このような事態を派遣軍司令部も把握しており、当時兵士に配布されていた「兵士ノ心得」にも不法行為を禁止する戒めの言葉が記されていたが、全く効果はなかった。ロシア側の資料にも日本軍兵士による不法行為についての報告がある(「日本兵の亡状 州里駅より中東鉄道に達せる報告に日本兵は薪及鶏類を窃み又駅員其他の家屋に押入りて婦人を辱めたり」)。また、同「絶叫書」中「最高幹部の非常識」の項では、匿名投書子は大井師団長がブラゴヴェンシチェンスク市へ入ったときにロシア人住民に対して取った「敗戦国ノ住民ニ対スル」ような態度を糾弾している。 「(ロ)社会主義ノ気分漲ル」項目では、敵=過激派による感化の事実などではなく、無知な青年将校が理屈に合わない無茶なことを命令し、兵士を叱り飛ばす。これに少しでも不満を漏らそうものなら、すぐ「社会主義」だと決めつけ、のけものにするとし、指揮官の兵隊に対する非人間的な扱いと、それに起因する不満の鬱積を指摘している。 治安当局は「過激派」による「危険思想」の伝播にも神経を尖らせており、帰還兵士の言動にも厳重な監視の目を光らせた(軍も独自に調査を行ったとされる)が、治安当局が作成した内偵資料「秘 帰還兵ノ言動」では、「危険思想」浸潤の事実よりも、将校・下士官の横暴な振る舞いを指摘する内容が圧倒的多数を占めたとされる。また一方で、将校は「戦地」では「常ニ部下ノ機嫌ヲ取ッテ居ル」という声も相当数見られる。同資料によれば、戦地では将校は「歩兵隊式」と呼ばれた結党を伴う仕返し、集団的実力行使を恐れたからだとされる。たとえば、歩兵第72連隊の某帰還兵士の証言によれば、第二中隊では「中隊長ハ下士以下ニ対シテ圧制ナリ」として「下士以下全員著剣シ中隊事務室ニ押掛ケ」中隊長に詫びを入れさせたとされる。また、第一中隊では平素傲慢な態度をとる特務曹長が、機関銃隊では中隊長が、それぞれ「歩兵隊式」の洗礼をうけ全治1ヶ月の重傷を負った。いずれもウラジオストク滞在中の事件だが、だからその程度で済んだ、と某帰還兵はつけ加える。「戦場ナラ彼等ハ命幾何アッテモ足ラン 弾丸ハ向フヘバカリ飛バンカラ」。 戦線が泥沼化した1920年頃には、前線の兵士は一日も早い帰国を望むようになったとされる(「他国の党派争ひに干渉して人命財産を損する、馬鹿馬鹿しき限りなり」)。
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