ロシア側の資料とは? わかりやすく解説

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ロシア側の資料

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 04:01 UTC 版)

ネヴァ川の戦い」の記事における「ロシア側の資料」の解説

ネヴァ川の戦い存在ロシア資料でしか確認できない。この戦闘について最初文献は、14世紀第一ノヴゴロド年代記である。 これによると、敵の連合艦隊襲来の報を受けたノヴゴロド公ヤロスラフ2世息子20歳だったアレクサンドル・ヤロスラヴィチネフスキー)は直ち小規模な手勢地元民兵引き連れ、敵がラドガ湖到達する前に会敵した。年代記戦闘の経過を以下のように記している。 "スウェーデン人強大な陸軍を、ノルウェー人フィンランド人タヴァスティア人は膨大な数の軍船伴い、またスウェーデン人はその王子聖職者同伴していた。彼らはイジョラ川河口ネヴァ留まりラドガ湖を、ひいてはノヴゴロドの全領域奪おうとしていた。それでも慈悲深い神は我らノヴゴロド)を愛し外敵から守護なさったスウェーデン軍ラドガ向かっているとするお告げ受けても、アレクサンドルネフスキー)は怯むことなくノヴゴロド人やラドガ人々と共に赴き、聖ソフィア神の母聖母マリア守護受けて7月15日、聖キリクとウリタの日に彼ら(スウェーデン人)を打ち破ったのである。この日は、630人の教父カルケドン公会議開いたのと同じ日であり、この地に大挙して押し寄せた多くスウェーデン人たちと首領スピリドンがそこで殺された。多くが、聖職者までもが殺されたと主張する者がいるが、高貴な者は彼らを船に乗せて返したのだが、それ以外数知れぬ者たちは穴を掘って彼らを投げ込み埋め、他の多くの者も傷ついたのだ。その夜、彼らは月曜日日の出を見る前に恥辱まみれて逃げ去ったノヴゴロド軍勢で斃れたのは、コンスタンチン・ルゴチニッチ、Yuryata Pinyashchinich、 Namest Drochilo、 Nesdylov son of Kozhevnik、ラドガ20もしくはそれ以下男たちである。しかしアレクサンドル公子ノヴゴロドラドガ軍勢連れて、神と聖ソフィアすべての聖人守られ無事に帰還したのだった。" 16世紀書物では、聖書との豊富な関連付けによってこの戦いをさらに詳細かつ大仰に脚色している。 大軍小勢破ったこの戦いは「ネヴァ川奇跡」と呼ばれるようになり、公子アレクサンドル・ヤロスラヴィチには「ネフスキーネヴァ川の)」という通称がついた。彼は2年後1242年氷上戦いでリヴォニア騎士団侵攻をも阻止した。しかしこの十字軍遠征結果ノヴゴロド拡大止まりフィンランドエストニアといった更なる東方への進出不可能になった。

※この「ロシア側の資料」の解説は、「ネヴァ川の戦い」の解説の一部です。
「ロシア側の資料」を含む「ネヴァ川の戦い」の記事については、「ネヴァ川の戦い」の概要を参照ください。

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