モンケの推戴および晩年とは? わかりやすく解説

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モンケの推戴および晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 01:19 UTC 版)

バトゥ」の記事における「モンケの推戴および晩年」の解説

グユク死後モンケ新たな皇帝カアン)として推挙しモンケ強行的に即位させた。このとき、バトゥ次代皇帝カアン)になることを望む声もあったが、バトゥはあくまで帝国の影の実力者徹して、ついにモンゴル皇帝になることはなかった。その後ジョチ・ウルス領土統治尽力しヴォルガ河下流域のかつてのイティル周辺冬営サライ首都として定めたバトゥ宮廷訪れたウィリアム・ルブルックによると、バトゥ宮廷季節によって南北移動し春にヴォルガ河東岸北上してブルガール方面留まり8月には南に戻っていたと言うバトゥが青帳汗(Kök Orda)、長兄オルダが白帳汗(Aq Orda)を任じてそれぞれジョチ・ウルス右翼西部)・左翼東部)の統治分担した13-14世紀モンゴル帝国時代にはこのような記録見えず、これはバトゥ家が断絶した後、ジョチ・ウルスが青帳(キョク・オルダ、Kök Orda)、白帳(アク・オルダ、Aq Orda)に政治的に分かれてたとする後代年代記ロシア側の資料などの記述を、バトゥ時代溯及して論じたものであろう赤坂恒明らは考えている。 1256年ヴォルガ河畔のサライにおいて死去した48歳バトゥ死去する前年1256年は、春にモンケ第2回クリルタイ開催していたため、嫡子サルタクはこのクリルタイ派遣されていた。訃報はただちにモンケ宮廷伝えられモンケサルタクバトゥ後継者任命したしかしながらサルタクジョチ・ウルス帰還中に病没し、さらにモンケその後継者に追認した末弟ウラクチもその半年後に夭折したため、最終的にバトゥ次弟ベルケ継いだ

※この「モンケの推戴および晩年」の解説は、「バトゥ」の解説の一部です。
「モンケの推戴および晩年」を含む「バトゥ」の記事については、「バトゥ」の概要を参照ください。

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