13-14世紀
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イングランド王とウェールズ(グウィネズ王国(英語版))の君主は1070年代以来、北ウェールズの支配権を争い、13世紀には紛争が再発し、イングランド王エドワード1世は、1282年の治世のうちに2度目の北ウェールズへの侵入を引き起こした。エドワード1世は大軍でもって侵攻し、カーマーゼンから北に、モンゴメリー(英語版)およびチェスターから西に進軍した。イングランド軍はコンウィの谷を下ってドルウイゼラン(英語版)およびカステル・ア・ベレ(英語版)を通過して、ハーレフに至り、オットー・ド・グランドソン(英語版)は5月、歩兵560人とともに占有した。 エドワード1世は、1282年の軍事行動に続いて北ウェールズ各地に建設した7か所のうちの1つであるハーレフに城の建設を命じた。1283年に第2次ウェールズ遠征の拠点として建設を開始し7年後に完成した。初期段階の賃金が5月中頃に届くと、大工や石工35人が6月から7月に派遣され作業を開始した。1283年の冬には、攻撃の事態に城を防御できるよう、まず内壁の約 4.5メートル (15 ft) が構築され、そして小規模な、計画された町が城と並行して置かれた。1285年にはジョン・ド・ボンヴィラール(英語版)が城守(コンスタブル、constable)に任命され、その後1287年に亡くなると妻アグネス (Agnes) が1290年までその任務を果たした。建設は、サヴォワの建築家で軍事技術者であったマスター・ジェイムズの総指揮のもとで続けられていた。1286年、建設最盛期の労働者は、一般作業者546人、採石夫115人、鍛冶工30人、大工22人、石工227人からなり、事業は一月におよそ240ポンドかかった。城は1289年(1290年)末に一通り完成した。費用は大体8190ポンドを要しており、エドワードが1277年から1304年にかけてウェールズの築城に費やした8万ポンドの約10パーセントにあたる。ハーレフは、36人の駐屯隊で設立された。城守、クロスボウの射手10人、チャプレン(聖職者)、鍛冶工、大工、石工など30人、そして設計にあたったマスター・ジェイムズが1290-1293年に見返りとして城守となって3年間この城で過ごしている。 1294年に、マドッグ・アプ・サウェリン(英語版)がウェールズ全域で急速に展開されたイングランド支配に対する反乱を開始した。イングランドが掌握していた町のいくつかが破壊され、ハーレフは、クリクキエス城(英語版)(キルキース)やアベリストウィス城(英語版)と同じくその冬に包囲された。これに新たな補給物資がアイルランドから海路で送られ、ハーレフの水路門により到着すると、続いて反乱は制圧された。1295年、反乱のすぐ後に、海に下りる経路周辺に追加の防備が築かれた。ディスペンサー戦争(英語版)に次ぐ1323-1324年にはさらなる取り組みがなされ、エドワード2世は、辺境領主(英語版)モーティマー (Mortimer) 家よりこの一帯を脅かされたことで、保安官グリフィズ・スロイド (Gruffudd Llwyd) に、付加的な塔を備えたゲートハウスまで防御の拡張を命じている。1283年の着工以来、建設に要した総費用はおよそ9500ポンドとされる。
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