1283年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/12 06:21 UTC 版)
千年紀: | 2千年紀 |
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世紀: | 12世紀 - 13世紀 - 14世紀 |
十年紀: | 1260年代 1270年代 1280年代 1290年代 1300年代 |
年: | 1280年 1281年 1282年 1283年 1284年 1285年 1286年 |
1283年(1283 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
他の紀年法
カレンダー
できごと
誕生
- 1月7日(弘安5年12月7日) - 宗峰妙超、鎌倉時代の臨済宗の僧(+ 1338年)
- 2月10日(弘安6年1月12日) - 小田治久、鎌倉時代、南北朝時代の武将(+ 1353年)
- 7月27日(弘安6年7月2日) - 花山院家定、鎌倉時代、南北朝時代の公卿(+ 1342年)
- 熊谷直経、鎌倉時代、南北朝時代の武将、御家人(+ 1365年)
- 鷹司冬経、鎌倉時代の公卿(+ 1319年)
- 徳大寺忻子、後二条天皇の中宮(+ 1352年)
- 日道、日蓮正宗大石寺第4世法主(+ 1341年)
- マーガレット、スコットランド女王(+ 1290年)
- 兼好法師、鎌倉時代、南北朝時代の随筆家、歌人(+ 1350年)
死去
- 1月9日 - 文天祥、中国南宋末期の軍人、政治家(* 1236年)
- 1月19日(弘安5年12月19日) - 姉小路忠方、鎌倉時代の公卿(* 1241年)
- 5月6日(弘安6年4月8日) - 阿仏尼、鎌倉時代の歌人、藤原為家の側室(* 1222年?)
- 5月31日(弘安6年5月4日) - 中原師連、鎌倉時代の官僚(* 1220年)
- 9月7日(弘安6年8月15日) - 隆弁、鎌倉時代の天台宗寺門派の僧、歌人(* 1208年)
- 9月26日(弘安6年9月4日) - 邦子内親王、鎌倉時代の皇族(* 1209年)
- 12月14日(弘安6年11月24日) - 覚信尼、鎌倉時代の尼、親鸞の末娘(* 1224年)
- アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニー、モンゴル帝国のイルハン朝の政治家、歴史家(* 1226年)
関連項目
1283年
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「モンゴルのビルマ侵攻」の記事における「1283年」の解説
詳細は「バモーの戦い」を参照 1283年、元軍はナラティーハパテ王の屈服を目指し、再びパガン領に侵攻した。元軍はビルマ北部のバモーを攻撃、王は戦わずして首都パガンから西ラハニャカラに避難した。しかし、この頃には王は完全に国民からの信望を失ってしまっていた。ナラティーハパテ王の別名「タヨウピイェー」は「タヨウ(蒙古=元)」と「ピイェー(逃走)」の合成語であり、「元軍から逃げた」ことを意味する。一方、下ビルマではモン人がパガン国内の混乱に乗じて立ち上がり、1287年にはワレル王を中心にペグー朝(バゴー朝)を建設した。
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