1280年までの外交戦略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 01:04 UTC 版)
「ムハンマド2世 (ナスル朝)」の記事における「1280年までの外交戦略」の解説
アブー・ユースフの二度目のイベリア半島への遠征中にアシュキールーラ家は自身の勢力の中心地であったマラガを新たな同盟者であるマリーン朝に譲り渡した。この行動はナスル朝に対して都市を防衛することができないのではないかというアシュキールーラ家の恐れが動機となっていた。マリーン朝は1278年2月中旬にマラガを占領し、アブー・ユースフは叔父のウマル・ブン・ヤフヤーを総督に任命した。ムハンマド2世はこの自国の領域におけるマリーン朝の侵入に警戒を募らせた。これは当初のキリスト教勢力に対する軍事介入後にアル=アンダルスを併合したかつての北アフリカのイスラーム王朝であるムラービト朝とムワッヒド朝の行動を彷彿とさせるものであった。そしてムハンマド2世はカスティーリャに対してイベリア半島のマリーン朝の軍事拠点であるアルヘシラスへの攻撃を働きかけ、同様にトレムセンの支配者のヤグムラーサン・ブン・ザイヤーンに対しては北アフリカのマリーン朝の領土への攻撃を働きかけた。 攻撃を受け、戦線が過剰に拡大したことでアブー・ユースフは1279年1月31日にマラガから撤退し、都市をムハンマド2世に明け渡した。この撤退はナスル朝がウマル・ブン・ヤフヤーに賄賂としてサロブレーニャ(英語版)の城と50,000ディナールの金貨を与えた結果によるものだったとも言われている。ムハンマド2世は自身の従兄弟であり親密な相談相手であったアブー・サイード・ファラジュ(英語版)をマラガの総督に任命した。マラガを手に入れたナスル朝はカスティーリャによるアルヘシラスへの包囲戦(英語版)では防御側のマリーン朝に付いて加勢したが、これは恐らく包囲されたイスラーム教徒が市内で苦しんでいる状況にムハンマド2世が後ろめたさを感じていたことが動機となっていた。マリーン朝とナスル朝の連合軍は1279年にカスティーリャの包囲軍を破ったが、カスティーリャの史料の記述からはこの時点ではナスル朝の関与に気づいていなかったとみられ、カスティーリャではもっぱらマリーン朝の手によって敗北したと考えられていた。
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