1285年説とは? わかりやすく解説

1285年(至元22年)説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 08:08 UTC 版)

カラ・ホジョの戦い」の記事における「1285年至元22年)説」の解説

この戦い起った年次について、「高昌王世勲碑」には至元12年のことと明記されており、一般的には1275年起こった事件であると考えられている。一方清末民国初期学者屠寄以来、この事件至元22年1285年)に起こった事件とする見解がある。この説の論拠となるのが『元史杭忽思伝の記述で、アストオセット国主であったハングスの子バイダル至元22年1285年)にビシュバリク方面出てドゥアとブスマ(禿呵・不早麻)と戦ったことが記録されている。また、集史』「クビライ・カアン紀」には「クビライの治世の末、ドゥア率い軍団チュベイアジキ敗れアジキ敗戦責任問われて笞討たれた」と記されるが、これに対応する記述として『元史伯顔伝には「至元22年秋、宗王アジキ失敗犯したため、バヤン命じてその軍を代わりに統べさせた」とあり、両者綜合すると「至元22年アジキ軍がドゥア軍に敗れた事件があったことがわかる。 更に、『元史世祖本紀至元22年10月に「カラ・ホジョ(合剌禾州)の民が餓えたため、牛等を供給した」とあることや、癸未1283年)に大元ウルスからフレグ・ウルス派遣されイーサーが「2年(両歳)かけて帰還するまでの間、戦乱遭遇した」ことなども、至元22年中央アジアのウイグリスタンで大規模な軍事衝突があったことの傍証となる。以上の記述から、「1285年至元22年)にドゥアとブスマの侵攻があった」ことは確実と考えられている。 ただし、以上の議論は「1285年至元22年)にドゥアとブスマの侵攻があったこと」の証明はなっても、「1275年至元12年)にカラ・ホジョの戦いがなかったこと」の証明にはならないという問題がある。そのため、杉山正明劉迎勝といったモンゴル研究者は「1285年ドゥアとブスマの侵攻があったこと」は認め一方、「ドゥアとブスマの侵攻1275年1285年2度あったかしれない可能性触れつつ、「カラ・ホジョの戦い=1285年説」には慎重な態度とっている。

※この「1285年(至元22年)説」の解説は、「カラ・ホジョの戦い」の解説の一部です。
「1285年(至元22年)説」を含む「カラ・ホジョの戦い」の記事については、「カラ・ホジョの戦い」の概要を参照ください。

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