民国初期
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1912年(民国元年)、名を「恩鑅」から「穆」に改める。以後、無錫の小学校教員などを務めつつ、『論語文解』を始めとする初期著作を刊行する。 1927年、江蘇省立蘇州中学に赴任する。当時の同校には、疑古派の顧頡剛や胡適が講演に訪れていた。また生徒の中には、のちに好敵手となる楊寛や、甥の銭偉長(中国語版)がいた。 1929年、蘇州に帰郷中の顧頡剛を訪問する。その際渡した『先秦諸子繋年(中国語版)』の手稿が評価され、1930年から燕京大学の講師となる。同年発表した『劉向歆父子年譜(中国語版)』は、顧頡剛と見解を異にしたが評価され、1931年から北京大学副教授となる。以降、清華大学や北平師範大学でも講義しつつ、『古史辨』に論文を寄稿する。 1933年、抗日戦争前夜の国民意識発揚政策により、北京大学で中国通史の講義を受けもつ。1937年5月、同大学での講義録『中国近三百年学術史(中国語版)』を刊行する。これは梁啓超の同題の著作『中国近三百年学術史(中国語版)』を批判するものでもあった。1937年7月に盧溝橋事件が起こると、疎開して西南聯合大学や武漢大学などで講義する。武漢大学での教え子に厳耕望(中国語版)がいる。以降終戦までの間、『国史大綱(中国語版)』の刊行などを通じて国民意識発揚に努める。 1949年4月、友人の張其昀(中国語版)や唐君毅とともに、広州にあった私立華僑大学に赴任する。当時の広州は国民政府の臨時首都だったが、銭穆は国民党員というわけではなかった。同年8月、毛沢東によるアメリカの『中国白書(中国語版)』への批判文の中で、胡適・傅斯年(中国語版)とともに米帝主義者として名指しで非難される。
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民国初期
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「梁啓超#中華民国と政界活動(1912-1920)」および「康有為#生涯」も参照 1911年の辛亥革命を経て中華民国が成立すると、康有為・梁啓超らは亡命生活を終えて、晴れて帰国する。しかしその後も、袁世凱に対する政争(籌安会・護国戦争)や、儒教をもとにした宗教を民国の国教にしようとする運動(孔教運動)や、張勲復辟(清朝の復興未遂事件)に関与していくことになる。
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