民国初期とは? わかりやすく解説

民国初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 06:03 UTC 版)

銭穆」の記事における「民国初期」の解説

1912年民国元年)、名を「恩鑅」から「穆」に改める。以後無錫小学校教員などを務めつつ、『論語文解』を始めとする初期著作刊行する1927年江蘇省蘇州中学赴任する当時同校には、疑古派顧頡剛胡適講演訪れていた。また生徒中には、のちに好敵手となる楊寛や、甥の銭偉長(中国語版)がいた。 1929年蘇州帰郷中の顧頡剛訪問するその際渡した先秦諸子繋年中国語版)』の手稿が評価され1930年から燕京大学講師となる。同年発表した劉向父子年譜中国語版)』は、顧頡剛見解異にしたが評価され1931年から北京大学副教授となる。以降清華大学北平師範大学でも講義しつつ、『古史辨』に論文寄稿する1933年抗日戦争前夜国民意識発揚政策により、北京大学中国通史講義受けもつ1937年5月同大学での講義録中国三百学術史(中国語版)』を刊行する。これは梁啓超の同題の著作中国三百学術史(中国語版)』を批判するものでもあった。1937年7月盧溝橋事件が起こると、疎開して西南聯合大学武漢大学などで講義する武漢大学での教え子に厳耕望(中国語版)がいる。以降終戦までの間、『国史大綱中国語版)』の刊行などを通じて国民意識発揚努める。 1949年4月友人の張其昀(中国語版)や唐君毅とともに広州にあった私立華僑大学赴任する当時広州国民政府臨時首都だったが、銭穆国民党というわけではなかった。同年8月毛沢東によるアメリカの『中国白書中国語版)』への批判文の中で、胡適傅斯年中国語版とともに米帝主義者として名指し非難される

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民国初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 23:39 UTC 版)

戊戌の変法」の記事における「民国初期」の解説

梁啓超#中華民国と政界活動(1912-1920)」および「康有為#生涯」も参照 1911年辛亥革命経て中華民国成立すると、康有為梁啓超らは亡命生活終えて晴れて帰国する。しかしその後も、袁世凱対す政争籌安会護国戦争)や、儒教をもとにした宗教民国国教にしようとする運動孔教運動)や、張勲復辟清朝復興未遂事件)に関与していくことになる。

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