民国時代
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1911年に辛亥革命がおこると伍廷芳は革命を支持し、12月の南北和議では南方軍政府の代表となっている。1912年に中華民国が成立すると、南京臨時政府の司法総長となり、海外での経験に基づいて司法権の独立を強く主張した。しかし4月に袁世凱が権力を握ると、辞職して上海に寓居した。1916年に袁世凱が死去して黎元洪が大総統になると、伍廷芳は段祺瑞内閣の外交部長となった。1917年の府院の争いで段祺瑞が黎元洪に解任されると伍廷芳が総理代理となった。しかし張勲が黎元洪に国会の解散を迫ると、伍廷芳は解散の署名を拒否して辞職した。その後孫文の招きに応じて広州の護法軍政府(広東軍政府)の外交部長となった。1921年に孫文が非常大総統となると、伍廷芳は外交部長・財政部長・広東省長を兼任した。
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民国時代
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中華民国建国初期、金融市場や貨幣流通はかなり混乱した。全国各地で貨幣が私鋳され、鷹洋、站人、本洋などの外国の銀本位ドルや、広東、湖北、江南、安徽などで鋳造された吉林貨、東三省貨、奉天貨、更には民国造幣局貨、平壌貨、清朝銀貨など、流通する貨幣は数十種あり、この多様さが経済交流と経済発展の障害となった。1912年・1913年に、中華民国財政部会両次設立幣制委員会はこの幣制上の問題について論議したが、結果無く散会となった。1914年2月17日、国幣条例が公布され、中国が銀本位制を採用したことが規定され、銀元を国貨とするよう定めた。1914年12月と1915年2月、天津造幣局と江南造幣局は統一貨幣を鋳造するようになり、民国銀円が成立した。1935年から国民政府は新しい不兌換の法定貨幣を発行し、中国で500年にわたって続いた銀本位制を解消した。しかし大量に発行したことにより悪性インフレーションを招いた。1948年8月からは金円券が発行され始めたが、1949年7月に流通が停止した。10カ月程度の流通であったが、インフレーションのために2万倍以上の通貨切り下げを行い、大陸民の経済損失はとても大きいものであったため、中国国民党は支持を失った。1949年7月、中華民国政府は金円券を廃して銀円券を発行した。しかし銀円券の発行と同時に、中国大陸の政局は段々と変わり、銀円券も民国とともに勢力を弱め、価値は大幅に下落した。そして最後は、中国共産党の発行する人民元に取って変わられた。
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