民国建国後
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1912年1月9日に中華民国臨時政府が成立すると、呉兆麟は北伐第一軍司令官を務めた。1月13日、呉兆麟は鄂軍の参謀長に任命された。 1912年9月、北京政府は武将に陸軍将軍と勳二位、大綬嘉禾章、文虎章を授与した。湖北省が武装解除された際に呉兆麟は任を解かれ、北京に移された。 1913年秋に李烈鈞が湖口で袁世凱討伐の反乱を起こすと、呉兆麟は黎元洪より段芝貴との連絡参謀に任命された。呉兆麟は現状に対する不満と袁世凱・黎元洪、そして孫文率いる中華革命党への不信から政治的世界を去り、湖北に戻って社会福祉に従事した。 呉兆麟は1922年、湖北省で樊口堤防の建設を指揮、越河を開き、民信門・民生門・王唐黄堤などの堤防を建設、3年後に完成した。 1922年、呉兆麟は「武昌新海革命同志会」の議長に公選され、武昌首義公園建設を提案した。 1923年2月15日、呉兆麟は将軍府将軍に任命された。 晩年の呉兆麟は、日知会の旧友である張純一(中国語版)らと仏教の経典を勉強し、「心治即国治」「心安即国安」を主張した。 1938年10月に日本軍が武漢を占領した際、呉兆麟は慢性喘息のために武漢に残り、毎日読経を行った。呉兆麟は日本側より元国民軍の張嵐峰(中国語版)が第1軍司令官を務める傀儡軍「和平救国軍」の総司令官、および湖北省政府参議に就任を強要されたが拒否し、自宅軟禁状態となった。 1942年10月17日、呉兆麟は武昌において喘息により死去した。重慶国民政府は武昌の伏虎山において公葬を実施した。
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