民国建国後とは? わかりやすく解説

民国建国後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/05 14:03 UTC 版)

呉兆麟」の記事における「民国建国後」の解説

1912年1月9日中華民国臨時政府成立すると、呉兆麟北伐第一軍司令官務めた1月13日呉兆麟は鄂軍の参謀長任命された。 1912年9月北京政府武将陸軍将軍と勳二位大綬嘉禾章、文虎章を授与した湖北省武装解除された際に呉兆麟は任を解かれ北京移された。 1913年秋に李烈鈞が湖口で袁世凱討伐反乱を起こすと、呉兆麟黎元洪より段芝貴との連絡参謀任命された。呉兆麟現状対する不満と袁世凱黎元洪、そして孫文率い中華革命党への不信から政治的世界去り湖北戻って社会福祉従事した呉兆麟1922年湖北省で樊口堤防建設指揮越河開き、民信門・民生門・王唐黄堤などの堤防建設3年後完成した1922年呉兆麟は「武昌新海革命同志会」の議長公選され、武昌義公建設提案した1923年2月15日呉兆麟将軍将軍任命された。 晩年呉兆麟は、日知会旧友である張純一(中国語版)らと仏教経典勉強し、「心治即国治」「心安国安」を主張した1938年10月日本軍武漢占領した際、呉兆麟慢性喘息のために武漢残り毎日読経行った呉兆麟日本側より元国民軍の張嵐峰(中国語版)が第1軍司令官務め傀儡軍和平救国軍」の総司令官、および湖北省政府参議就任強要されたが拒否し自宅軟禁態となった。 1942年10月17日呉兆麟武昌において喘息により死去した重慶国民政府武昌の伏虎山において公葬実施した

※この「民国建国後」の解説は、「呉兆麟」の解説の一部です。
「民国建国後」を含む「呉兆麟」の記事については、「呉兆麟」の概要を参照ください。

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