民国での事績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/07 04:00 UTC 版)
中華民国成立後の1912年(民国元年)11月、韓国鈞は辞職して帰郷した。1913年(民国2年)8月、江蘇省民政長に就任し、1914年(民国3年)7月には安徽省民政長(後に巡按使)に転任した。1915年(民国4年)に辞職して帰郷する。泰源塩墾公司を経営し、運河工程局の事務に関わった。1920年(民国9年)8月には、運河工程局会弁に就任している。1922年(民国11年)4月、山東省省長に任命されたが、実際に就任はしなかった。同年6月、江蘇省省長に就任した。1924年(民国13年)12月、署理江蘇督弁を兼任している。翌年1月に署理督弁兼務を解かれ、2月に省長も辞任した。これにより帰郷して、再び製塩業と水利事業に従事する。 国民政府成立後も、在野にあって製塩業、水利事業に専念した。特に1931年(民国21年)夏に、省内の運河が決壊した際には、江蘇省政府の招聘に応じて復興事業に取り組んだ。また、国民政府でも全国水利委員会委員を務めたほか、省政府の禁煙委員会、農民銀行委員会、賑災委員会委員などもつとめた。晩年、韓国鈞は帰郷している。汪兆銘政権が成立した後の1941年(民国30年)9月、日本軍や汪兆銘政権から公職に就くよう迫られたが、韓はこれを拒絶した。1942年(民国31年)1月23日、死去。享年86。
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