民国初期の動向とは? わかりやすく解説

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民国初期の動向

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 01:12 UTC 版)

呉佩孚」の記事における「民国初期の動向」の解説

1912年民国元年)、袁世凱大総統となった後に軍が改組され、呉佩孚第3砲兵第3団団長に任命された。1914年民国3年4月、曹錕が長江上遊警備総司令任命され岳州駐屯することになると、呉は副官長に任命されてこれに随従した。1915年民国4年)、第6旅旅長に昇進する同年12月護国戦争第三革命)が勃発すると、曹や呉が率い第3師は四川向かい蔡鍔率い護国軍と戦闘繰り広げた翌年6月に袁が死去すると、第3師は保定移駐している。これ以後、曹や呉は馮国璋率い直隷派の一員として活動することになった1917年民国6年7月張勲復辟起きると、呉は張勲討伐参加した1918年民国7年)春、安徽派国務総理段祺瑞湖南省進軍してきた護法軍(南方政府軍迎撃命令したため、呉佩孚第3師を率いて戦場向かい岳陽攻略軍功をあげた。ところが安徽派張敬尭が、実際にはろくに軍功無かったにもかかわらず湖南督軍任命されたため、呉や馮玉祥直隷派指揮官たちは激しい不満を覚える。翌1919年民国8年4月、呉らは衡陽攻略したものの、その後は全く護法討伐に動かなかった。まもなく五四運動勃発すると、呉は公然と学生運動支持しヴェルサイユ条約調印反対主張している。そして同年8月には段による南北武力統一路線への反対公然と全国向けて通知した。これら反段祺瑞・反安徽派行動は、全国世論からも好評であったとされる12月28日馮国璋死去したため、以後直隷派では曹錕と呉が主導権を握るようになっていった。

※この「民国初期の動向」の解説は、「呉佩孚」の解説の一部です。
「民国初期の動向」を含む「呉佩孚」の記事については、「呉佩孚」の概要を参照ください。

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