民国成立後の活動
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1912年1月1日、南京にて中華民国臨時政府(中国語版)が成立するが、張は相変わらず上海におり、政権中枢に呼ばれる事はなかった。これに対抗し、上海にて孫武らと反同盟会・反共進会・黎元洪支持を掲げる「民社」を設置し、武器購入用予算から2万元を利用して機関誌「民声日報」を刊行する。のち湖北省にて支部を設立する。「震旦民報」の発刊や、中学校、女学校の設立に携わった。一方で、蔣翊武とは民社の存在をめぐって、孫武とは横領を発見した事で確執が生じる。 2月27日、黄申薌ら反孫武派の軍人により孫武の邸宅が焼き討ちされる「群英会事件」が起こる。軍務部は軍務司に縮小され、副部長だった張振武、蔣翊武は顧問となった。張振武は対立していた孫武の下野を喜んでいたとされる。 また、張振武は南北和議以前より二次革命決行を主張し、上海に派遣された際に江西援鄂軍総司令・馮嗣鴻らと結託して「将校団」と呼ばれる民軍(私兵集団)を有していた。自身の側近であった方維(中国語版)を団長とし、当初は600人であったが、やがて3000人に膨れ上がり、そのため武器も上海から輸入していた。この存在を問題視した黎元洪は、将校団を正規軍に編入しようとして度々解体しようとしたが、張は抵抗してさらに1千人あまりの「衛隊」を有した。革命人士でのち国民党元老の一人となる馬超俊は晩年、彼ら衛隊を「みな舞台衣装のようだった」と回想する。 3月、黎元洪は張振武を東三省辺防使に異動させるよう袁世凱に建議したが、袁世凱は東北の治安が安定したとして却下した。5月末、張振武は袁世凱により結局更迭され、北京で総統府軍事顧問という名ばかりの官職、更に蒙古屯墾使に左遷された。余りの仕打ちに激怒した張振武は武昌に戻った。
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民国成立後の活動
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1912年(民国1年)4月、王一亭は黄興らと南京で拓殖学校を創設した。翌年、第二革命(二次革命)で革命派が敗北すると、王一亭はイギリス租界に逃れ、絵画に没頭している。1915年(民国4年)、中国商業儲蓄銀行董事として復帰し、1917年(民国6年)に同行董事長に昇進した。 1925年(民国14年)夏、王一亭は、逝去した孫文(孫中山)を葬る中山陵の図案選定顧問を務めた。1927年(民国16年)冬、国民政府中央救災準備金保管委員会委員長となり、さらに振務委員会常務委員などに任ぜられている。1932年(民国21年)1月には、国難会議に招聘された。1937年(民国26年)に第二次上海事変が勃発すると香港へ逃れたが、まもなく上海に戻っている。1938年(民国27年)11月13日、上海で死去。享年72(満70歳)。
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